2023年12月26日火曜日

脳とトラウマ 3

 臨床家の多くは脳で起きている現象は極めて微細なレベルだと思っていたが、最近の画像技術の進歩で発達障害を含む様々な精神疾患で脳の形態的、つまりマクロ的な異常(増大や委縮)が報告されている。報告者により報告は相違があることも多いが、これらの研究はトラウマがある種の重大な影響を脳のレベルで及ぼしていることを示唆しているのだ。

トラウマとは記憶の病理なのか


 トラウマと脳科学というテーマで始めたこの第11回目は、そこでカバーしておきたい内容を考えると、とても一回では語りつくせないという思いがある。この連載はその後に書籍化をしていただけるという事なので続きはそちらに回すとして、分かりやすい概説的な話にとどめたい。

 トラウマとは外的な要因により傷つけられることであり、それがのちの心の成長に不可逆的な影響を与えることである。それは全く元の状態に復元されたようで、実は瘢痕を残し、何らかの後遺症を残すことが特徴である。

 おそらくトラウマと脳の関係を論じる上で一つの有効な問いは、トラウマとは記憶の病理なのか、というものである。トラウマ関連疾患と言われるものの中での典型例は言うまでもなくPTSDである、そしてそのもっとも特徴的なのが、いわゆるフラッシュバックという現象である。フラッシュバックではトラウマの体験が実に生々しく、今ここで起きているようなリアリティをもって再現される。そして感情的、ないしは身体的な反応も復元される。つまりトラウマが起きた時の恐怖や不安が動悸や発汗や手足の小刻みな振るえなどと一緒に蘇ってくる。この体験は、単なるトラウマの記憶を思い出す、という現象とは明らかに異なる。敢えてこれを記憶と呼ぶなら、通常とは異なるもの、「トラウマ記憶」と呼ぶべきものなのである。

 トラウマ体験のもう一つの際立った特徴がある。それは通常の記憶の中に意識の中に順序良く折りたたまれておさまっているのではないという事だ。それは何かのトリガーにより、あるいはなんの前触れもなく襲ってくる。こうなると日常生活を平穏に送ることが出来なくなる。仕事をしていても家族とリラックスしていても突然フラッシュバックに襲われると、恐怖に身をすくませるしかなく、その時の活動は緊急停止せざるを得ない。すると今度はそれがいつ襲ってくるかが気になり、それに用心することに全エネルギーを注ぐことになる。

 このことからトラウマ体験とは、トラウマ記憶を形成するような体験とひとまず定義することが出来そうだ。

ちなみに以上のトラウマ記憶の性質は、上に示した図によりかなり明快に説明できる。そしてそれによりどのような治療薬が有効で、またそれ以外のどのような治療手段が考えられるかについての手がかりも与えられるのである。


記憶を超えたトラウマの存在


このようなトラウマ記憶に基づくトラウマ理論が新たな性質を帯びるようになったのは、愛着障害との関連がクローズアップされるようになってきたからであろう。ある種の衝撃的で苦痛や恐怖を伴った体験は確かにトラウマ記憶を形成する。しかし人が記憶を形成することが出来るのは、少なくとも大脳辺縁系の海馬という部分の成熟を待つ必要がある。つまり年齢で言うとだいたい4歳以降である。しかしそれ以前に被った被害もその後の心の成長過程を大きく左右することは古くは1940年代以降のボウルビーやスピッツ等により明らかにされてきた。トラウマを先ほどのように、「外的な要因により傷つけられることであり、それがのちの心の成長に不可逆的な影響を与えることである」とするならば、それは記憶が形成される以前にも生じうる。「トラウマ関連障害とはトラウマ記憶が形成されること」はトラウマの定義を狭く取り過ぎていたことになる。