ここでウィニコットの本論文でもっと重要でかつ謎めいたテーゼが繰り返される。「ブレイクダウンへの恐れとは、すでに起きてしまったそれへの恐れである。」(p.104)そして言う。「それが隠されているのは無意識にであるが、それは「抑圧された無意識」という意味ではない。」(p.104) これはきわめて挑戦的とも言える文章だ。無意識とはフロイトの理論の根幹に存在する概念である。そしてそれと抑圧の機制は切っても切れない関係にある。抑圧されたものが無意識を構成するからだ。そして「抑圧された無意識」ではない」という事で、自分がここでいう無意識は、フロイトのそれではないと言っているのだ。このようにウィニコットはフロイトのタームを用いながらも、そこに別の意味を付与するという事が非常に多い。
そしてウィニコットはこの原初的なトラウマ、苦悩が今後どのように治療的に扱われていくかについて次のように述べる。「原初的な苦悩という最初の体験は、自我がそれをまとめて現在形で取り入れ、全能的なコントロール下におくことでしか、過去形になって行かない。つまり患者はまだ体験されていない過去の詳細を、将来において探索し続けなくてはならない。」(p.105)
これはすぐに治療論に結びつくような言い方である。そして治療者がこれらの事情をよく了解していることがとても重要になる。「治療者はその[ブレイクダウンの]詳細が事実である事を前提にしてうまく扱わない限り、患者はそうすることを恐れ続ける。」(p.105)ただし治療者はこの患者の通常の記憶には含まれていない、いわば解離されているブレイクダウンの記憶を知り、それを前提として治療を進めるにはどうしたらいいか。そのことが極めて重要になる。
そしてウィニコットはこう述べる。「もしこの奇妙な類の真実(まだ経験していないそのことがすでに過去において起きたということ)を、患者が受け入れる用意があるなら、治療者との転移関係の中でそれを体験する道が開ける。」(p.105)
つまりこの論文でウィニコットが語っている事実、すなわち患者はその「すでに起きたことを体験していない」という事を治療者の側がいかに理解しているかが重要になる。ではそこでどのような治療が展開されるのであろうか。
そのことをウィニコットが彼らしい皮肉交じりの文章で示しているのか以下である。
「それ[原初的な苦悩]は分析家の失敗や間違いに対する反応としての転移の中で体験される。それは過剰ではない分量で扱うことが出来、患者は分析家のそれ等の技法的な誤りを逆転移として納得するのだ。」(p.105)
一見サラッと読み過ごしてしまいやすいかも知れない。しかしここで語られていることは当時常識とされてきた治療論に真っ向から反する内容である。捉えようによってはきわめて過激である。
まず患者は分析家の失敗に対する反応として転移を起こすというが、普通は転移はブランクスクリーン的な治療者に対して患者が抱くものである。ところがウィニコットの言い方だと、転移は治療者の逆転移のアクティングアウトに対する反応、という事になる。これはある意味では最も現代的で、従来の伝統的な精神分析の教義に対するアンチテーゼを含んだ考え方である。(ホフマンの著書「精神分析過程における儀式と自発性」(岡野、小林稜訳、金剛出版、2017年)の第4章に「分析家の経験の解釈者としての患者」という野心的な論文があるが、これと同様の発想である。そしてさらに、患者はそれを技法の誤りによる逆転移として受け入れるためには、治療者の側にその覚悟がなくてはならない。ウィニコットは、「私は自分の理解の限界を患者に知ってもらうために解釈を行っていると考えている」(「対象の使用と同一化を通して関係すること」(1968))あるいは「解釈の重要な機能は、分析家の理解には限界がある事を示すことである」(「交流することとしないことから導かれるある対立点の検討」1963年)という言い方をしているが、これなども解釈偏重の考え方に対する彼のアンチテーゼと言えるだろう。
さてこれまでに述べたことを現代的な視点からとらえ直してみたい。
「すでに起きたが体験されていないブレイクダウン」とは自我や抑圧の機制が始まる以前のトラウマと考えることが出来る。すなわち愛着形成期のトラウマ(愛着トラウマ、Schore)に相当するであろう。そしてこれは乳児期のまだ右脳しか機能していない時期に生じ、また自他の区別がつかず、過去も未来もない。この時期に生じたトラウマは前言語的、「無意識的」にしか体験できない。その無意識は、フロイトの用いた意味とは異なる「無意識」であり、そこに生じるのは抑圧ではなく解離である。