例えばこの図は「メンタライゼーションと境界パーソナリティ障害」Aベイトマン/P.フォナギー 狩野力八郎、白波瀬丈一郎監訳 岩崎学術出版社 2008年 の p.111 に掲載された図であるが、左側の円の中の斜線を施された楕円の部分が乳児が映し出されるはずなのに、母親由来のそれ以外のものが映っている状態と考えることが出来る。これが「ミラーリングの部分的失敗」として図中で説明されているが、このミラーという言葉はまさに、先ほど紹介したウィニコットの論文に出てくる「母親の鏡の機能」という表現に由来する。(Mirror-role of Mother and Family in Child Development. 子供の発達における母親の鏡の機能 (in) Playing and Reality, 1971.これをたとえばコフートの言うミラーリングに由来したものと考えがちであるが、そうではない。そしてそれは子供の心に映し出された際に、その中の異物的な存在として意味を持ち始めるのだ。ここで話している内容と一緒である。 さて次に私がお話したいのは、今日の本題とも言うべき部分である。アブラム先生はドナルドウィニコットトゥデイで次のように言っている。「ウィニコットの最晩年の非公開の手記には、彼の解離、憎しみ、男性と女性の要素、対象の使用、退行などについての最終的な考えが示されている」。 (*Abram, J (2013) Donald Winnicott Today)
そしてその意味で重要となるのは次の二つの論文なのである。これらはいずれもウィニコットの死後に発表されたものという意味では共通しているのだ。そしてそこで彼は「尖った」部分を目いっぱいに発揮しているのである。
1.ブレイクダウンへの恐れ Fear of Breakdown (1974)
2.未公開ノート(1971, Abram *による)