2023年12月16日土曜日

未収録論文 19 ポリヴェーガル理論と感情

まだ見つかった。これなども一度書いたきり、自分でも読み返さなかったであろう原稿だ。

トラウマ ― ポリヴェーガル理論と感情

臨床心理学 第20巻3号 感情の科学 pp. 287-290, 金剛出版

  本稿では「トラウマ ― ポリヴェーガル理論と感情」というテーマについて論じる。
最近のトラウマに関連する欧米の文献で、「ボリヴェーガル理論 Polyvagal theory」に言及しないものを見ないことはほとんどないという印象を受ける。それほどにこの理論は、トラウマ関連のみならず、解離性障害、愛着関連など、様々な分野に関わり、また強い影響を及ぼしている。Stephen Porges という米国の生理学者が1990年代から提唱しているこの理論は一体どのようなものであり、どのようにトラウマや感情の問題に関連しているのであろうか。それを論じることは簡単ではないが、輪郭だけでも示すことで、この理論が私たちに感情についての新たな見地を提供してくれる可能性を示すことが出来るのではないかと考える。
Porgesの業績(Porges, 2003, 2007, 2011, 2017)は、従来は交感神経系と副交感神経(迷走神経)系のバランスによるホメオスタシスの維持という文脈で語られていた自律神経系に新たな「腹側迷走神経複合体」の概念の導入を行い、それを「社会神経系」としてとらえ、神経系の包括的かつ系統発生的な理解を推し進めたことにある。この腹側迷走神経複合体は、自律神経系の中でこれまで認知されずにいたもう一つの神経系として彼が命名して記述し、注意を喚起したものである。自律神経系でありながら、なぜこれを「社会神経系」と呼ぶかと言えば、他者との交流は身体感覚や感情と不可分であり、それを主として担っているのがこの神経系と考えられるからだ。つまり自己と他者が互いの気持ちを汲み、癒しを与え合う際に重要な働きを行うのが、この腹側迷走神経複合体というわけである。そしてこの神経複合体を、従来から知られている交感神経系や背側迷走神経系(従来考えられていた迷走神経系)との複雑な関わり合いを含め包括的に論じるのが、このポリヴェーガル理論なのである。
このポリヴェーガル理論の解説に入る前に、近年の身体と感情についての一連の知見について概観しておく。

身体、感情、脳科学、トラウマ

私たちの認知的な活動と感情や知覚及び身体感覚は、体験に際して分離しがたい形で関与している。臨床的な立場からは、一方ではうつ病などの感情障害が様々な身体症状を呈し、他方では認知的なアプローチがうつ症状や強迫症状に影響を及ぼすことが経験される。またストレスやトラウマが様々な身体症状を生むことも臨床例を通して体験している。いわゆる心身症や身体表現性障害は身体科によっても精神科によっても十分に対処しきれない多くの問題を私たちに提起し続けている。心身相関の詳細な機序は現代の医学においてもほとんど解明されていないといっても過言ではないであろう。
その中で近年、心身相関の問題に関して一つの重要な仮説を提唱したのが、脳生理学者Antonio Damasio(1994,2003)である。彼は私たちが何らかの決断を行う際に、選択対象の価値を示すマーカー(指標)として感情や身体感覚が働くという説を提唱した。これが本特集でも取り上げられているソマティックマーカー仮説(Damasio, 1994)である。そしてそれを生み出す脳生理学的な基盤として、Damasio は脳と身体感覚のループ body loop を想定する。そこでは体験に際して知性と感情との相関の中で情報処理がおこなわれ、またそれが将来再び起きると予測される際には、「かのような」ループ "as if" loop によるシミュレーションが行われるという。Damasioによればこのループは扁桃核、腹内側前頭前野、体性感覚野などと身体感覚を結ぶ経路であり、それらが注意とワーキングメモリの機能を担う背外側前頭前野を介して連合するとされる。
Damasioが特に注目したのは、前頭葉にダメージを受けた人がしばしば適切な決断を下す能力を失うという所見である。彼は前頭眼窩皮質のなかでも特に腹内側前頭前野が損なわれた際、知能テストには影響を及ぼさないものの、ある決断を下す際に困難さが生じることをアイオワ・ギャンブリング課題等を用いて見出した。これは人間が判断を行う際に、それが一見理性的で認知的なものと見なされても、そこには感情や身体感覚に基づく「虫の知らせ」が大きく関与していることの傍証とされた。
ちなみに最近の脳研究では、このボディループにおいて島皮質が重要な役割を果たしているという報告もある(梅田, 2016)。梅田は感情状態と身体状態の両方の課題で、活動が共通してみられる部位が島皮質であること、その意味では感情を体験するときは、身体状態も「込み」であることを指摘している。
トラウマやPTSDについての研究は、それがいかに愛着のプロセスに深く関連した生理学的(右脳的、Schore, 2009)な基盤を有するかについての知見を提供している。トラウマ体験は一種の身体的な嗜癖のような性質を有することもあり、バンジージャンプ、サワナ浴、マラソンなどで当初はむしろ不快を覚える行為を継続することで快感につながるという研究(van der Kolk, 2015)が示唆的である。近年の解離に関する知見もまたトラウマと感情について理解を深めるうえで重要である。解離においては特に背側迷走神経複合体が賦活され、いわゆる凍り付きfreezingが生じ、感情や記憶はむしろ身体レベルで保存されることになるが、この様な事情について、van der Kolkは「身体がトラウマを記録する」といみじくも表現している。

ポリヴェーガル理論とトラウマ

Porges の唱えたポリヴェーガル理論は、自律神経系の詳細な生理学的研究に基礎を置く極めて包括的な議論であり、上述の心身相関に関する新たな理論的基盤を提供する。自律神経は全身に分布し、血管、汗腺、唾液腺、内臓器、一部の感覚器官を支配する。通常は交感神経系と副交感(迷走)神経系との間で微妙なバランスが保たれているが、ストレスやトラウマなどでこのバランスが崩れた際に、様々な身体症状が表れると考えられる。その意味で自律神経に関する議論はその全体がトラウマ理論としてとらえることも出来よう。
 Porgesの説を概観するならば、系統発達学的には神経制御のシステムは三つのステージを経ているという。第一段階は無髄神経系による内臓迷走神経で、これは消化や排泄を司るとともに、危機が迫れば体の機能をシャットダウンしてしまうという役割を担う。これが背側迷走神経複合体(dorsal vagal comlex,DVC)の機能である。そして第二の段階はいわゆる闘争・逃避反応に深くかかわる交感神経系である。
Porgesの理論の独創性は、哺乳類で発達を遂げた第三の段階の有髄迷走神経である腹側迷走神経(ventral vagal comlex,VVC)についての記述にあった。VVCは環境との関係を保ったり絶ったりする際に心臓の拍出量を迅速に統御するだけでなく、顔面の表情や発話による社会的なかかわりを司る頭蓋神経と深く結びついている。私たちは通常の生活の中では、概ね平静にふるまうことが出来るが、それはストレスが許容範囲内に収まっているからだ。そしてその際はVVCを介して心を落ち着かせ和ませてくれる他者の存在などにより呼吸や心拍数が静まり、心が安定する。ところがそれ以上の刺激になると、上述の交感神経系を媒介とする闘争-逃避反応やDVCによる凍りつきなどが生じるのである。このようにPorgesの論じたVVCは、私たちがトラウマに対する反応を回避する際にも自律神経系が重要な働きを行っているという点を示したのである。

(以下略)