もう一つあった。2019年に発表したものである。探せばもっとあるかもしれない。
解離-トラウマの身体への刻印
本稿ではトラウマがいかに身体的なレベルで継続的な影響を及ぼすかについて、特に解離の文脈から論じることを試みる。なお本稿で用いる「トラウマ」は精神的な外傷一般を表すことにする。
DSM-Ⅲ(1980)で正式に疾患概念として認められたPTSD(post-traumatic stress disorder、心的外傷後ストレス障害)の概念の前身として、すでにA. Kardinerら(1947)は「戦争神経症」を提唱していたが、そこには心的なストレスやトラウマに伴う身体症状が詳細に記載されていた。近年では医学的な技術の発展に伴い、それら身体症状の生じる脳生理学的なメカニズムも明らかにされつつある。本稿ではトラウマの身体表現について、以下の四種の項目を設け、解離症状との関連から論じたい。それらはフラッシュバックに伴うもの、転換症状、自律神経系の症状、その他、である。
1. フラッシュバックに伴う身体症状
PTSDにおいて生じるフラッシュバックの機序は以下のように説明される(B. van
der Kolk, 2015))。通常は知覚情報は、大脳皮質の一次感覚野から視床thalamusに送られ、そこでおおまかな意味が与えられる。たとえば森の中を歩いていたら、長い紐状のものが降ってきたとしよう。視床は「頭上から紐状のものが落下してくる、おそらくヘビだ!」などと認識し、その情報は即座に情動処理や記憶に関わる扁桃核amygdala に送られる。扁桃核はそれを危険と認識し、視床下部や脳幹に指令を発して、ストレスホルモン(コルチゾールとアドレナリン)を放出するとともに交感神経を刺激して動悸、頻脈、発汗、瞳孔の散大、骨格筋の緊張などを促すことで、闘争‐逃避反応の準備を整える。ここで特徴的なのは、視床からの情報は扁桃核とは別に大脳皮質にも送られ、そこでより詳細な処理が行われることである。これらは J. Ledeux(1996)の研究により示された、high road とlow road という二つの経路により説明される。すなわち上述のように視床から扁桃核に伝わり、アラームが鳴らされる(low road)一方では、その情報はワンテンポ遅れて大脳の前頭皮質にも伝わり(high road)、そしてたとえば「なんだ、良く見直したら、やはり木の枝じゃないか」などの総合的な判断がなされた場合は逃走-逃避反応にストップをかける。
このlow roadによる扁桃核の興奮は、その情動部分の記憶とともに、海馬を強く抑制することで陳述的な記憶の部分の定着を阻害することが知られ、それがいわゆるトラウマ記憶を形成する。そしてこの興奮パターンが脳に刻印され、将来そのトラウマ状況を想起させる刺激によりそれが再現され、最初のトラウマ状況と同様の恐怖や不安や身体感覚を体験することになる。それがフラッシュバックである。
ちなみに最近では深刻なトラウマの際に、むしろ交感神経の活動低下と副交感神経の活動昂進による解離症状がみられるタイプが同定され、それはDSM-5において「解離症状を伴う」という特定項目を有したPTSDとして分類されることとなった。
2.「転換症状」としての身体症状
転換 conversionという用語自体は、S.フロイトが無意識の葛藤が身体レベルに転換されたと仮定して用いたものである。ただしその生じる詳細な機序については現在でもほとんど明らかにされていない。転換症状は極めて多彩な臨床症状として表現される可能性があるが、それを一言で表現するならば、機能的な(解離性の)神経学的症状となる。最初はしばしば神経内科や脳神経外科が扱うが、症状を呈している器官に器質的な原因が何ら見いだされないために「機能的」な(「解離性」の)神経学的症状として記載される以外にない。そして実際に最新の診断基準であるDSM-5(2013)およびICD-10(2018)では「転換性障害」にかわってそのような記載がなされる。更には従来用いられていた「心因性のpsychogenic
」という表現も、これらの診断基準では用いられていない。つまり「転換」症状に何らかの原因を求めることは留保される形になっているのだ。
ところでこの機能性神経症状において具体的に何が起きているのかを、失声の例で考えてみよう。人の脳は「声を出せ」という指令を、声帯や横隔膜などの随意筋に送ることで発声が生じるが、その指令を出す最終のレベルは運動野のすぐ隣に位置する運動前野である。そこから高次運動野を介して一次運動野に指令が渡ることになる。ところが運動前野には、解離されたほかの部位からも指令が伝えられる可能性がある。その部位は運動前野に向かって「声を出すな」と抑制をかけるかもしれない。そしてこのほかの部位からの抑制の命令を当人が知らないという事態が「転換」症状として起きているのである。
ちなみに「心の別の部位」については、精神分析的には無意識として説明されることになる。フロイトなら「仕事を休みたいという無意識的な願望」と考えたはずだ。そのような因果論的な説明を迂回するのが、これらの機能的、ないしは解離性、という呼び方なのである。
3.自律神経系を介する症状―ポリベイガル・セオリー
トラウマは自律神経系を介して運動・感覚器官以外の様々な身体症状にかかわっている可能性がある。自律神経は全身に分布し、血管、汗腺、唾液腺、内臓器、一部の感覚器官を支配している。自律神経系は交感神経系と副交感(迷走)神経系からなるが、通常は両者の間で微妙なバランスが保たれており、それを意図的にコントロールすることは出来ない。そしてストレスやトラウマなどでこのバランスが崩れた際に、様々な身体症状が表れるのである。それはたとえば職場のストレスを抱える人が、出勤の途中で激しい眩暈と動悸、発汗を呈するといった形を取るかもしれない。そして内科や眼科、耳鼻科などを受診しても特定の診断は見いだせず、対症療法的な薬物の投与の上に精神科や心療内科の受診を勧められることになるだろう。
(以下略)