感情と精神療法
精神療法 第49巻第2号 感情の力 2023年 に所収 pp.159-163
はじめに
「感情と精神療法」はかなり込み入ったテーマである。自然科学と同様、精神医学や心理学においても顕在的で測定可能な所見が主としてその対象とされる一方では、情動の問題はつかみがたいもの、扱い難いものとして敬遠されていた。その中で一世以上前に精神分析を創始したS.フロイトが、感情の持つ意味に注目したのは画期的なことであった。
フロイトの人生において感情は非常に大きな位置を占めていたことは間違いない。私たちが目にするフロイトの写真はどれもしかつめらしい顔を見せ、親しげな表情はほとんど見られない。しかし彼ほどの情熱家は稀ではないかと考えられるほど、人や物事への思い入れが深かった。友人であるウィルヘルム・フリースや弟子のシャンドール・フェレンチに対しても情熱的な内容を送ったが、その分決別の仕方も激しいものだった。
フロイトが最も興味を持った感情は、性的欲望や興奮に関連するものであったことは疑いない。これほど強烈で、彼の心を惑わす感情はなかったのであろう。彼がエディプス葛藤の概念を生み出す過程で論じていた幼児期の母親への性愛性は、幼少時のフロイトが若き母親に対して身を持って体験していた可能性がある。そして彼は26歳の頃にマルタ・ベルナイに出会い一気に恋心を抱き、家庭を作るために研究者の道を捨てて臨床に転じた。彼は4年ほどの婚約期間の間禁欲を保ったとされが、結婚した後にもマルタに変わらぬ情熱を向け続けたという記録はない。フロイトはこの体験から「性愛的な情熱は思いを遂げるや否や消え去る」という現実的な側面を知ったのであろう。それは彼が後に精神分析的な治療論を唱える際に組み込まれて行ったが、この点については後に立ち返ろう。
臨床家フロイトの発見 除反応から転移へ
先達ジョーゼフ・ブロイアーの導きのもとで臨床家となったフロイトは、情動に関してもう一つの興味深い体験を持つこととなった。一部の患者においては、催眠を通して過去のトラウマ体験を回想して情動体験を持った後に、ヒステリー症状が改善するのを目の当たりにしたのだ。いわゆる「カタルシス効果」や「除反応」と呼ばれる現象との出会いである。ただしすべての患者が催眠に誘導され、除反応が生じるわけではない。やがてそのことを悟ったフロイトは、それを催眠を用いることなく緩徐な形で行う方法を考案した。それがいわゆる自由連想法であり、こうして精神分析が成立したのである。
フロイトは情動の表現が治癒を導く可能性を発見したわけだが、いざ治療者である自分自身にそれが向けられた時には非常に当惑したらしい。フロイトの有名な逸話に、ある女性患者が治療中に突然フロイトの首に手を回し、その直接的な情緒表現にフロイトは当惑したというものがある。情熱家フロイトは、女性から向けられた感情表現には大きな戸惑いを体験していたのだ。しかしそれは患者が過去に別の対象に向けられた感情が、「情動の移動」により治療者に方向転換しただけであるという理解にフロイトは至った。それを彼は「転移」と名付けた。こうしてフロイトにとって患者の感情は、学問的に理解して治療の有効な手段として取り扱うべきものとなった。
ここで私だったらフロイトに訊ねたい。「でもフロイト先生、そもそも患者さんは治療者に強い感情や関心を持っていないことだってあるのではないのですか?」これに対して天国のフロイトは次のように言ってくるはずだ。「治療者が自分の姿を現さないことで、そのような感情は生じる運命にあるのです。でも患者自身にとってはその感情は意識化されていないこともあるでしょう。それを抑圧や抵抗と呼ぶのです。」そしてこう付け加えるだろう。「患者の愛の希求に応えないことで、その感情が維持されるのです。」フロイトのいわゆる「禁欲規則」にはそのような意味合いが含まれるのであるが、それは彼の婚約時代の実体験に基づいているのであろうというのが私の見解である。
フロイトのこの転移の理論は、彼の最大の発見の一つとされる。フロイトは転移感情は陽性でも陰性でも、それがかなり激しい場合には治療の妨げとなるという考えを持っていた。それは抵抗としてみなされ、解釈その他により積極的に解消されるべきものだとしたのだ。そして最終的に残る「治療の進展の妨げにならない陽性転移」が治療の決め手になるという言い方をしている。つまり治療者に対して向けられた緩やかな陽性の感情こそが治療の進展の決め手となるということである。
以下略