2023年11月13日月曜日

治療技法としての自己開示 2

最近ある臨床報告で、ある患者さんが次のような悩みを訴えているのを知った。「私のカウンセラー(男性)は、ご自分の学生時代のエピソードやご自分の好きな映画の話など、次から次へと話題を広げ、結局私は自分の話をすることが出来ません。彼はそんなに私の話を聴きたくないのでしょうか。」もちろんこの訴えを持つ患者さん自身が抱えている問題を考慮すべきであろう。治療者としてはそれ等の話題は患者さん自身の話を引き出すための呼び水として話されたという可能性もあろう。しかし患者さん本人には全く違う受け止め方をされているとしたら、これはかなり問題である。
 私は治療者の自己開示に関する心得としていくつかの項目をあげることが出来ると考える。
1.治療者は患者の話題を取り上げてはならない。患者は多くの場合、治療者から提供される情報を自分 にとっての異物として受け取る可能性が高い。
2.自己開示はあくまでも治療者が自分の語りに信憑性や誠実さを込めることを目的としてなされるべきである。
3.患者は現実の治療者の姿を知りたいという気持ちと知りたくないという気持ちの両方の間を揺れ動いている(両者には弁証法的な関係が成り立つ)事に留意しなくてはならない。
そしてここで私はこれが自己開示を技法として位置づける根拠である。
ここで私が考える技法について、多少「脳科学的」に論じたい。
 私はある治療的な営みが、それを行っている最中にそれに没頭する部分と、それを俯瞰する部分とが同時に存在することが重要であると思う。ちょうどサリバンのいう「関与しながらの観察」に相当するだろう。自己開示も、相手に自分の主張を実感を伴って伝えたいために自分の体験を話すという事はかなり自然に、あるいは無反省に起きる可能性がある。しかし同時に批判的な目で、すなわち以上の1~3の項目をチェックする部分がなくてはならない。
 はたしてそんなことが出来るのだろうか?最近の脳の側性 laterality に関する知見はそれが可能なことを教えている。私達の右脳と左脳はかなり独立した機能を営んでいる可能性がある事が分かったのだ。
 右脳は物事に情緒的に没入し、それこそ自他の区別がつかなくなるような状態である。他方では左脳はそれを見て、理由付けをし、言語化をするという作業をしている。そしてたいてい私たちの行動においては、この両側面が同時に体験されているのである。それが最も典型的に表れているのが遊びである。
 通常多くの私たちは、遊びはある種の没頭であり、極めて右脳的な営みと考えるかもしれない。