2023年11月12日日曜日

治療技法としての自己開示 1

治療技法としての自己開示 ―脳科学的な見地から
 少し唐突なテーマではあるが、脳科学的な見地から精神療法的なアプローチについて考える上での一つの考え方を示したい。まずこの考察のテーマは「自己開示」が技法であるかという点であるが、一応ここでその定義を示しておこう。
自己開示とは,治療状況において治療者自身の感情や個人的な情報などが患者に伝えられるという現象をさす。
自己開示はそれが自然に起きてしまう場合と、治療者により意図して行われる場合がある。
つまり自己開示は、意図的にも、不可避的にも起きうるものとして示してある。少なくとも私はそう思っている。
ちなみにこれは精神分析事典、2002年、岩崎学術出版社によるが、この項目を書いたのは私である。つまり我田引水なわけだ。
次に私がこれまでに論じた自己開示についての議論を振り返っておきたい。
現代の精神分析においては、自己開示の問題は、「是か非か」という視点は回避すべきである。そして自己開示はそれが治療を促進するのであれば用いるべきであり、そうでないならば控えるべきである。(いわゆる「提供モデル(Lindon, 1995)」の考え)
さらに自己開示の問題は、治療者が「自己を用いること use of the self」(T. Jacobs,1991)という観点からとらえ直されるべきであろう。
以上の路線でこれまで自己開示について書いてきた。
さて最近私が関心を持っているのは、以下の点である。
まず精神療法を他で受けている患者さんから意外に多く聞かれるのが、「私の治療者は自分の話ばかりする」という不満。「匿名性を重んじ過ぎることの問題」とは逆のテーマもはらんでいることが伺える。(特に治療者の自己愛の問題が関係している可能性がある。)
これと関連してだが、患者は転移関係の中で治療者の現実の姿を「知りたくない」という気持ちを持つ可能性があり、それは防衛的な意味を有することもある。つまり最初は「自己開示は時には治療的ですよ」という主張から、むしろ「治療者は現実の臨床場面では自己開示をし過ぎではないですか?」へのシフトが生じたのである。そしてその上で改めて思うのは、自己開示はその種類や効用についてかなり細かな理論的理解が必要であり、その意味では技法の範疇に属す
るテーマであり得る。