2023年11月11日土曜日

連載エッセイ 10の8

 強迫と快感の脳科学

 快と不快の問題について改めて振り返ると、最終共通経路説のようなわかりやすい図式は到底成り立たないことが分かった。それどころか快や不快は実に複雑極まりない問題であることがわかる。私たちは快感を求めて行動をするという一見当たり前の原則(フロイトの言う快感原則)は実は例外がいくらでもある。WとLの解離に見たように、私達は苦しいことも希求する。それはその行動がそれでもある種の安堵を与えてくれるからだ。その意味では「私たちは快/苦痛の回避を希求する」といった方がより一般化できるかもしれない。どんなにパチンコが嫌でも、それをしないことの苦痛からは解放されるからだ。

  ここまで論じてきてやはり最後に入れておかなくてはならないテーマがある。それが強迫である。強迫行為(compulsion) とは,たとえば手が汚れていると思えて(強迫思考 obsession) 何度も洗ってしまうような行為を指す。あるいはカギをかけ忘れた気がして何度もチェックしに帰るといった行為である。頭では大丈夫だとわかっているが、それを再度しないことが苦痛なのだ。そしてこれは事実上嗜癖の構造と同じだという事がわかる。得られるのは決して快ではなく一種の安堵(それもほんの短時間の)に過ぎない。この「~しないと気が済まない」は実はほんの些細なこと、ないしは偶発的なことでありうる。

ある時右ほほにできたにきびを弄っているうちに出血し、やがてかさぶたになる。するとそれをどうしても弄らずにはいられなくなる。そしてそのうちにその範囲は広がり、もっと立派なかさぶたが出来るようになると、もっと気になってきてしまう・・・・。この種の経験は、程度の差はあるであろうが、みなが体験することである。その場合どうして右ほほのニキビなのか、どうして例えば足の中指の端っこのささくれでないのか、という問題に答えはない。たまたまほほのその部分に意識が取り付いてしまうのである。

 先ほど渇望の話をしたが、この強迫思考はまさに渇望を生んでいるといっていいが、それがどうして生まれるのかは謎だ。嗜癖の場合は、一度強烈な快感を生んだものを渇望するという意味では分かりやすい。ところがほほのニキビのあとは別にそれでなくてはならないという根拠はないのだ。意識の中にポツンと浮かび、強烈な関心を呼んでいるもの。脳科学ではそれをサリエンシーなどと呼んでそれが重要な研究課題となっている。しかしサリエンシーという呼び方を作ったからと言って、人間の快や強迫の問題は少しも解決したことにはならない。そしてこの問題はいかにも生身の脳において生じることであり、AIにはとてもおきそうもない事態なのである。快や苦痛、嗜癖、渇望・・・・これらの存在はいずれも人間の心をAIとははるかにかけ離れた存在にしているのだ。