2023年11月10日金曜日

連載エッセイ 10の7

 渇望という魔物

 このように見ていくと、依存症で一番問題なのは、いわゆる渇望という現象ではないかという考えに行き着く。現象としてはこうだ。違法薬物所持で逮捕され、刑期を終えて娑婆に出たあなたは、一見健康体を取り戻す。ドーパミンニューロンの興奮が一応元に戻って生活もできるようになった。食事も普通においしい。映画でも見たくなるだろう。
 ところが実は健康体ではないことがすぐにわかる。それは元の住居に戻った時に起きるだろう。部屋に入った瞬間に、そこで違法薬物を用いた時の記憶がよみがえるのだ。そしてその瞬間に、突然激しいマイナスWに襲われる。「苦しい。ヤクをやりたい・・・・。」あなたはまだスマホかどこかに残っている薬物を取り扱う業者の連絡先を探し出し、いまにも連絡したくなるだろう。そしてそれを抑えるのに必死になる。それまで平穏だった心は一気に薬物依存者のそれに戻される。これはもう脳の条件反射に近い。これは普通の生活が出来、食事を美味しいと感じられるようになってもそうだ。
 読者の皆さんは「同じことは刑務所で起きていてもおかしくないか?」と思われるかもしれない。それはそうなのだ。でもその程度ははるかに弱い。刑務所ではたとえ薬物をやりたくても、麻薬業者への連絡は事実上決してできない。だからそれを行い、薬物を手に入れてすぐにでも使用する、という想像は生々しくは生じないのだ。これが決定的なのである。マイナスWの原型を思い出してほしい。目の前のチョコレートが取り上げられた時の苦痛、である。いったん想像上で薬物をほとんど使用するまでになるためには、それが現実的に可能な状況が必要なのである。そしてそれは刑務所内では訪れないのだ。