授業の参考文献として、私ががつて書いた「自然流精神療法入門」の第7章「精神療法と夫婦の関係とはどこが違うのか?」を用いる。今から読み返してもあまり異論はない。
精神療法と夫婦の関係とはどこが違うのか?「自然流精神療法の勧め」第7章から。
本章のテーマは終始私の頭にあるものの、取り上げるべきかどうかいろいろ迷ったものです。それは私が属している精神分析の世界ではこの種のテーマはあまり扱われない傾向にあるからです。しかし精神療法と夫婦関係は、同じ二者関係という意味で多くの点で照合可能であり、またテーマに沿って深めることが、両者は類似しているという結論が出ようと、その相違点がより明らかにされようと、それぞれの関係を理解するうえでの助けとなるものと考えます。
先日私と精神分析を続けている独身女性の患者さんAさんが、次のように言いました。「私はここに週4回も来てあなたと会って二年になるんですね。これじゃ会話のない夫婦よりもっと長く話し合っていることになるんじゃないんですか?」
私は「確かにそうかもしれませんね。」とうなずきました。すると彼女は、「でもきっと私も結婚して、本当の関係に入らなくてはならないんだわ。」と続けました。
私はこのAさんとの会話がその後も長く頭に残っていました。確かに週4時間も、彼女自身の人生について深刻な対話をするということは彼女にとってもおそらく例外的な体験でしょう。彼女が過去に持った短い結婚生活でも、夫と満足な会話が交わされたことは非常に少なかったといいます。
しかしまた私はAさんの、「精神分析ではない『本当の関係』」という言い方にも引っ掛かったままでした。彼女の言葉はある種の前提、すなわち「療法家と患者さんの関係はいわば仮の関係であり、夫婦関係は本当の関係である」という一見もっともな前提を含んでいるわけですが、それに対して「果たしてその通りなのだろうか?」という疑問がわいたのです。
確かに治療関係は人工的で、契約に基づくものであり、料金のやり取りを含みます。他方では夫婦関係は両者の間の打算を含まない純粋な愛情を前提としたものが理想といえます。しかし実際にはこのような区別が必ずしも成り立たないことも事実です。結婚生活が多くの計算や欺瞞に基づくこともあるでしょう。また同時に治療関係が夫婦関係とは異なる意味で純粋さを含んだ「本当の関係」としての側面を持つことも可能ではないかと思うのです。
夫婦は、その関係が壊れないことを最終的な目標としている
夫婦関係の基本的な力動について、私は次のような考え方を持っています。それは二人が互いに別れないということを最終的な目的としているということです。そして夫婦がその体をなしている限りは、「自分達は一生添い遂げるのだ」という一種の幻想を守ることに最大のエネルギーが注がれるものです。
私のこの主張はあまりにも当たり前に聞こえるかもしれません。ただしこういう風にいえばこの主張の狙いがもう少し伝わるでしょう。「結婚生活においては、その関係の維持を脅かすような要素は極力排除されるものだ。そしてその要素には互いの率直さや正直さも含まれうる。」
ところがこの率直さや正直さこそ、精神療法において療法家と患者さんとの間で最大限発揮されなくてはならないものなのです。すなわち治療的な関係の持つ性質と婚姻関係の持つ性質とは、時には矛盾する関係にあるのだ、ということを主張したいわけです。(だからといって婚姻関係を脱価値化するつもりはないということは、後に述べるとおりです。)
もちろん結婚生活がその継続を前提としているからといって、離婚が決して起きないというわけではありません。離婚率が5割を超えるアメリカなどでは、将来破局する運命にない婚姻関係のほうが少数派なわけです。先述の通り結婚は一種の幻想に基づいているのですから、婚姻が一種の契約や何らかの必然性に基づいたものである場合を除けば、この幻想が消失すれば婚姻関係も簡単に崩れてしまいます。しかしその様な場合に人は、「自分は間違った相手を選んでしまっただけだ」と自分に言い聞かせて次の相手を捜し求めるだけです。幻想の内容自体が間違っていたのではなく、それを誰と分かち合うか、という判断が間違っていたと自分に言い聞かせるのです。
精神(分析)療法とは、その関係が終わることを最終目的としている
さてこの夫婦関係との比較で言えば、精神療法や精神分析においてはちょうど逆の事情が見られることになります。つまり療法家と患者さんの関係は、それが終結することが最終的な目標になっています。治療は患者さんが治療体験を通して学んだことを身につけたり、療法家のイメージを内在化したりすることにより、もう実際の療法家を必要としなくなる日を目指しているのです。
「別れることが前提となっている関係で、果たして深い人間的な交流が可能なのか?」と疑問に思われるかもしれませんが、これはたとえば子育てにおいて私達が通常体験していることと通じているのです。私達は自分のまだ幼い子供との親密な関係がやがては終わってしまうことを知っています。もちろんそれは永久の別れではなく、巣立ちという形をとるのであり、たとえ物理的に離れていても、多くの場合親子の深い関係は一生続いて行くものです。しかし共に暮らし、互いの存在を世界で最も大切に思うような関係は、少なくとも子供の側からは破られていくということを、親の側は知っています。しかしだからといって子供に対する愛情に変わりはありません。
この「将来は別れていく」という前提は、私達の子供に対するかかわり方に大きな影響を与えます。たとえば私は息子に対して言う必要のあることは、疎ましがられ嫌われるかもしれないからといって控えることはあまりありません。「将来は彼は離れていくんだ」と自分に言い聞かせることで、見捨てられ不安が最初から防衛されているからです。私との意見が決定的に食い違い、そのために彼が家を出て行くという姿をイメージして、どこかで「ウン、ウン、それもあるだろうな。それも一つの自立の仕方だろう。」ぐらいに思っています。そうでも思わなければやり切れません。
以上の事情は治療関係にもおおむね当てはまります。私は精神療法においては患者さんが率直に連想するのと同様に、療法家も患者さんに対して率直であるべきだと思います。それはもちろん療法家が思っていることや感じていることをすべて口にすることとは異なりますが、療法家の立場からしか言えないことを、機を逃さずに患者さんに伝えることは、療法家の一つの義務だと考えます。私は治療関係で、「ここで必要な直面化をすれば患者さんが自分を嫌ったり、治療をやめたりするのではないか?」という恐れを持つようなことがあったら、それは治療のプロセスを大きく障害しかねないと考えます。療法家は、患者さんがいつでも自分のもとを離れて行ってもいいような心の準備が出来ていなければなりません。
もちろん療法家は患者さんに安全な環境と心地よさを与えることに心を砕かなくてはならないでしょう。療法家の率直さを受け入れる用意の出来ていない患者さんには、そのための準備期間も必要になり、そこでは厳しい直面化やフィードバックは当面は禁物になるかもしれません。また長い目で見て患者さんが治療に留まることがその人のためになると考えれば、「もう治療をやめます!」と治療室を飛び出しそうな患者さんをとりあえずは引き止める努力をすることもあるでしょうし、厳しい現実からいったんは目をそらすことを促すかもしれないでしょう。でもそれらの特別の配慮に基づいた介入は患者さんから去られたり見捨てられたりすることへの恐れとは無縁でなくてはなりません。
さて随分理想論を言いましたから、もう少し現実的な話をいたします。実は療法家が患者さんから去られることを恐れる現実的な理由はいくらでもあるのです。「自分が療法家として未熟だったり無能だったりするから患者さんは去っていくのではないか?」という不安を少しも抱かない療法家はいないでしょうし、また患者さんに対して愛着やそれ以上の感情を持ってしまうことがあったら、その度合いに応じて患者さんに去られることはつらく、悲しいものとなります。さらに療法家が患者さんの支払う治療費により何とか生計を立てているような場合、患者さんに去られることを恐れないということの方が無理な話かもしれません。あるいは精神分析のトレーニングなどで、患者さんが一定の期間治療を続けないと、扱ったケースとして勘定に入れてもらえない、などという場合もあります。(私も実はそれを身をもって体験したことがあります。)
結局このような現実を考えに入れた場合、私がここで主張できるのは次のようなことです。「実際には療法家は患者さんが自分のもとを去ることを恐れることもあるだろう。そしてその分だけ、率直であろうとする療法家としての機能がそこなわれる可能性がある。」
もちろんこの私の主張はある単純な前提に立っていることになります。それは率直であることそれ自体は相手を傷つけ、あるいは憎しみを買う可能性があるということです。そしてこれに対しては当然ながら「二人の人間の率直なコミュニケーションは、両者の絆を深めることもあるではないか!」という反論を招くことになります。私はその主張をもちろん可能性としては認めます。しかし率直なコミュニケーションが二人の絆を深めるとしたら、それは率直さそのものというよりは、その背後にある「それが相手のためになるのなら、嫌われても率直であろう」という、ある種の愛他感情によるものであろうと私は考えます。相手への愛情や思いやりを欠いた率直さは、単なる批判や辛らつさと区別出来なくなってしまいます。
ではその場合の愛他感情が夫婦の間柄でも発揮されるかといえば、必ずしもそうではないのです。夫婦の間柄では、率直さにより表現される愛情とは別の種類の愛情が優先されるでしょう。この点について以下にもう少し私の考えを述べます。
夫婦間で「治療的な率直さ」に優先されるべきものは?
ここまでで私は、「別れることへの恐れや防衛を伴った関係は望ましくない」というニュアンスを与えたかもしれません。しかし私はむしろそれとは逆の事を主張したいのです。現実的な人間関係において深い愛着や生きている喜びが体験されている分だけ、それを失うことに対する恐れも存在します。失うことを恐れるような関係が持てない人は、本当の意味での親密な人間関係を体験していないと言えるのかもしれません。そしてその親密な関係の代表が、夫婦の関係なのです。
それは先ほど触れた親子関係に関しても当てはまります。「子供は将来出て行くものだ」という諦めは、親の側の防衛の上に成り立つものです。いくら諦めているといっても、やはり親は子供が去って行く際には深刻な寂しさを体験するものでしょう。ただそれが子供にとっての人生の旅立ちであることへの喜びが寂しさを軽減してくれるわけです。
そこで夫婦の関係において、お互いの率直さ以上に優先されるものは何か?ということになりますが、正直言って私にはそれを言葉でうまく表現できる自信がありません。でも私自身の経験をお話しして、出来るだけそのニュアンスを伝えたいと思います。
私は晩婚の方でしたから、療法家になって精神分析的な精神療法の経験を積むことが結婚生活にかなり先行していました。そして妻との係わり合いを精神分析的な観点からも眺めてみるということも試みました。しかしその結果として、少なくとも従来の精神分析的な考えは夫婦の関係にはあまり役に立たないと感じることがしばしばありました。もちろん二人の間で起きていることを冷静に反省しようとする、自分の中に起きている気持ちを振り返るという営みは、夫婦関係においても大切であり、それについては精神療法のトレーニングにより身についたものが役立ったでしょう。そしてそれらの反省をもとに私たちは互いに出来るだけ率直に自分の気持ちを伝え、お互いを理解しあう努力をしました。しかしそうすることで得た二人の関係に関する洞察や理解は、二人の間で起きている問題の解決のほんの切っ掛けを与えてくれるに過ぎなかったのです。
ではそれ以上に何が必要かといえば、それは私達二人の関係を維持するために必要な「行動」を取ることでした。この「行動」には様々なものが含まれます。相手の話を黙って聞くこと、こちらの言い分を率直に話すこと、相手に謝ること、相手に対して怒ること、相手に何かを与えること、相手に何かを要求すること、自分からゴミを出すこと、仕事場からの帰りに花を買うこと、相手に甘えることなど実に様々です。それはその時々の二人の関係性により異なるのであり、その関係が少しでも快適になり、長続きするために必要だと直観的に感じられるものなのです。(もちろんその直観が結果的に「間違って」いる場合もあり、関係は悪化するかもしれません。しかしそれによる学習効果があれば、関係をさらに豊かにすることが出来るでしょう。)
この「行動」には一つの特徴があります。それは多くの場合「自分はなぜそうするのか?」とか「こんなことをする義務があるのか?」とか、あるいは「こんなことをする権利があるのか?」等の答えを見つけることが難しく、また見つける必要もないということです。たとえその「行動」を取ることが理不尽に感じられるようなことがあっても、二人の関係を維持するために必要なことなら実行されるのです。
そして自分がどのような「行動」を選んで実行に移すかは、その個人個人の問題です。ですからそのプロセスを相手に事細かに伝える必要はありません。伝えようとしても、その多くは言葉に出来るような内容を含んでいるわけではありませんし、人間はどのような「行動」を取ろうと、取るまいと、いくらでもそれに理屈をつけることが出来るのです。そしてそのその「行動」の理屈ではなく、結果のみが二人の関係にとって意味を持つのです。
以上のことを逆のほうから言えば、相手との関係を維持するための「行動」をどこまで取れるかが、自分が夫婦の関係に執着しているかを結果的に示しているといえるのです。
私はこの感覚を得てから、傍目から見るとどうして配偶者にそこまでしなくてはならないのか、と思えるような夫婦の行動が少しわかるようになったと思います。アル中で常に暴力を振るう夫にそれでも従う妻、精神病院に入退院を繰り返し、挙句の果ては入院中の男性患者さんと出来てしまうような妻のもとに、それでも毎週面会に訪れる夫、などなど。通常なら見限るべき相手に手を差し伸べるという行為は、もう理屈では説明できません。彼らにとっては、相手と別れ(られ)ないという前提がまずあって、そのために取るべき「行動」が決まってくるのです。
二人の関係が維持されていく一方で、率直な言語的交流は驚くほど意味を失っていることも少なくありません。それこそほとんど言葉を交わさないけれども、しっかりと維持されていくような関係も存在するのです。先に述べたように、言葉が理由付けとして以上の意味を持たない場合は、余計な言葉を交すことは二人の関係を逆に空虚なものにするだけかもしれません。ただし無論、言葉を交すことが選ばれた「行動」であるならば、話は別です。
ところでこの「行動」には通常はある程度のエネルギーが必要となります。時にはその「行動」の後に、自分が予想もしていなかったほどのエネルギーを発揮していたことに気がつくこともあります。しかし逆の場合もあります。つまりそのエネルギーがどこからも湧いてこないために二人の関係にとって必要と思える「行動」を取ることが出来ず、これが相手に対する自分の気持ちの限界だったのか、ここまで自分は薄情だったのかと知ることもあります。そしてこの関係の維持のために自分が使うことの出来るエネルギーの量が、「相手に対する愛情の深さ」という極めて漠然とした呼び方をされているものの、具体的な指標となるのです。「愛情とは選択である」という理解の仕方をする方の多くは、私の考えのここの部分に賛成していただけるでしょう。
最後に ― 治療とは非現実的な関係である
治療的な関係と結婚関係を比較して改めて思うのは、治療は婚姻生活のもつ「一生別れない」という前提とはかなり異なった、ある意味では正反対の「前提」をもった営みであるということです。それはお互いに率直であるということの代償として、決して互いを束縛しないという前提です。(もちろんこれは相手を束縛したいという願望を持つこととは別物です。)そしてそのためには決まった構造(決まった治療時間、決まった場所、そして限定された治療期間)以外には療法家と患者さんが日常的な接触をしないということがかなり重要なのです。日常レベルで接触しないことは、互いを束縛しない第一歩であり、これはお互いをかなりの程度に束縛しあう運命にある結婚生活とは相反するものです。
治療関係は、時間がくれば別々の世界に帰っていく運命にある二人により作り上げられる架空の世界です。そこでは患者さんは療法家がいかなる努力も惜しまずに、自分の考えや感性を提供してくれるという幻想を持ちます。療法家も限られた時間だからこそ全力疾走してその患者さんの期待に応えようとすることが可能です。
このような治療構造に守られて、患者さんは理解され、洞察が深まり、ある程度は満ち足りた気分で治療室を出て仕事場や学校に戻ります。でも考えても見てください。家に帰るとその療法家が同時に同居人であり、一足先に帰宅してステテコ姿で寝転がってビールを飲みながらプロ野球中継を見ているということが想像しうるでしょうか? そのようなことが倫理的に許されるかどうかという問題は別にしても、療法家はその様な形で患者さんの日常に入り込むことで、すぐにその影響力の大きな部分を失ってしまうのです。
療法家が自らの私生活をあまり語らず、患者さんもそれに興味を持ちつつ触れようとしない一つの理由は、この治療関係の非現実性を守ろうとする相互の意図がそこで合致しているからです。この非現実性がお互いの率直さや正直さにより互いの心的な現実の交換を保障するというのはつくづく逆説的なことといえるでしょう。