12月の講義の準備である。
私はこの問題について発表したことがないが、何しろ「当事者」である。恐らく臨床のケースについて考えるのに費やした時間と同じくらいこの問題についても考えてきた。だからそれなりの持論がある。
1.まず夫婦間の問題はいくつかの類型に分かれると思う。一つは互いに親密さを感じなくなっている(そして互いへの関心を失っている)が、生活の都合上結婚生活を続けている場合。
2.お互いに(あるいは一方が)相手に相当な不満を持ちながら、関係を維持ている場合である。
このうちセラピストは2番の問題を扱うことが圧倒的に多いと言えるだろう。しかし1.の場合にも、夫婦の間柄が冷え切っていながら別れずにいるということになり、これも非常に不幸な問題と言える。この両者について私はそれなりに意見を持っているが、まずその前に述べておきたいことがある。それは婚姻関係の自然史である。カップルはどのように成立し、結婚し、生活を継続し、最期を迎えるか、である。
婚姻関係のナチュラルヒストリー
私にとって結婚生活は謎に満ちているが、もっとも不思議なことは何かと言えば、配偶者はこれほど身近な存在でありながら、ほとんどのケースでお互いに関心を持たず、またお互いの言葉は響かなくなっているという事である。しかしそれでも身体的には(性的な意味ではないとしても)親密であり、寝室を共にしていたり互いの前で着替えをしたりということが普通になっている。このパラドクスは非常に興味深い話である。
どうしてこのようなことが生じるのか。その最大の問題は、与えられているものの有り難さが分からなくなるということである。この性質がある限り、人は決して幸せになれない。これを第一の原則としよう。
① 配偶者により与えられるものの多くは早晩相手にとっては「定数」化する。
例えばあるカップルが知り合い、関係を深め、ついに結婚したとしよう。夫の方は温厚で女性に暴力を振るうことのない穏やかな性格。奥さんの方はきれい好きでとても料理が上手いとしよう。そしてそれらの長所はお互いにとても大きな意味を持つ。夫の方は、家の中がいつもピカピカで、美味しい手料理が食卓に並ぶことにとても満足をしている。彼の実家では母親があまりキレイ付きでなく、家の中はいつも散らかっており、また共働きの両親は不在がちで、食事を自分で調達するということはざらだったために、彼女のきれい好きで、料理が上手だという長所を非常にありがたく感じていた。また夫の男性の温厚さは、妻にとっては家の環境をとても安全で心地よいものにしてくれる為に、とてもありがたかった。というのも妻の方はその実家では酒に酔った父親が常に暴力を振るい、とても安全な環境と言えなかったからだ。
夫の方は思う。いつも身ぎれいでしかもお金を無駄使いしない奥さんについて、こんなに素晴らしい配偶者はいないだろう、くらいに思う。しかし徐々にそれらの性質は定数になる。夫にとっては奥さんがいつも部屋の整理整頓をしてくれるのは当たり前になる。また妻にとっては、夫が暴力を振るわないのは当たり前のことになる。
この原則に従わない人間は少数派だろう。それは相手にしてもらうことが「定数」にならず、毎回感謝の念を抱くような場合である。
たとえば部屋をきれいにしてくれる妻に毎回感謝する夫は、常に自分の子供時代に過ごした家の乱雑さが思い出され、「何と自分は幸せだろう」と実感する場合だ。つまりそれが一種のトラウマとして思い出されるために、妻のきれい好きのありがたさを常に感じるという場合。あるいは職場の同僚が「うちのカミさんはいつも家の中が散らかり放題だ」という話を聞いて、「何と自分はラッキーだ」と思う場合であろう。また夫の穏やかな性格を有り難いと思う妻は、例えば家に帰ることが安全地帯に帰ることだという体験を持てずにいた妻が、毎回その昔の体験を思い出しては穏やかな夫を思いやる。
もう一つの原則
② 結婚後にお互いに及ぼし合う影響力は徐々に低減し「いくら言っても変わらない」部分だけがお互いに残る。そしてそれは「相手は決して自分を曲げない、過ちを認めない」という確信となる。(人の意見で変わると、「自分のことを軽視しているからだ!」と被害的に受け取ることが多い。)