2023年10月4日水曜日

連載エッセイ 9 その4

 快に関する共通経路説に対する反論

さて、この共通経路説はこの後反論に遭うことになる。それはある実験によるものだった。ケンブリッジ大学のウォルフラム・シュルツ Wolfram Schultz が驚くべき実験を発表した。それはこんな実験である。サルの脳の報酬系に電極をさして、その部分の興奮の状態を経時的に記録できるようにして、一連の実験を行った。そしてサルに赤と緑の光の信号を見せた。緑の信号を付けた後には甘いシロップという報酬を与えるようにした。すると驚くべきことが起きた。最初はシロップが与えられたときに報酬系が興奮していたが、そのうち緑の光を見た時に興奮するようになった。これは分かる。「よし、これからシロップがもらえるぞ」と喜びを先取りするからだ。ところが問題は、実際のシロップが与えられた瞬間には報酬系の興奮が見られなかったのである。

 この実験結果に基づき、シュルツはドーパミン系に関する新しい理論を打ち立てた。ドーパミンは報酬に反応して出されるのではない。予測した報酬が実際にどの程度得られたか、という予測誤差 reward prediction error に反応するのだ、としたのである。シュルツはこんな説明をしたのだ。私達は世界が自分に与えてくれるであろう満足体験を予測する。ある期待を持つとそれに向かって進むことが出来る。しかしそれが実際にかなうかどうかは分からない。そして満足体験は、将来それが確実に得られるとわかった時点で体験されるのだ。だからネズミは緑の光が点灯した時点で満足するが、その予想にたがわずシロップが得られたときは、予測通りであった(予測誤差がゼロであった)ためにドーパミンの興奮は起きなかったのである。

 しかしこの実験結果は多くの人を悩ませることになった。考えてもみよう。あと数時間でビールが飲める、と想像するのは快感であり、そこではドーパミンが出る。しかしそれが実際にビールを口にする際には微動なりしないのはなぜだろうか? 「ああ、ビールね。先にそれを思い浮かべて楽しんだから、実際にビールを飲んでももう特に気持ちよくないよ。」となるだろうか?絶対そうはならないだろう。ビールを実際に飲んだ時も快感なはずなのにドーパミンが関係しないとはどういうことか? つまりドーパミンの最終共通経路説は正しくないことになるのだろうか?

ここにもうひとつこの説に反する事実も確かめられた。シュルツの提唱するように報酬の予測の際にドーパミンが関与するのなら、脳にドーパミンが枯渇している場合には、数時間後のビールのことを考えても、「よし!あと数時間の仕事を頑張ろう!」というモティベーションは恐らく生まれないのではないか。そしてこれはネズミなどによる実験で明らかになった。しかし問題はドーパミンなしでも、ビールを口にした時の「おいしい」は問題なく体験できるということが分かった。そう、ドーパミンが作動しなくても私たちは快感を覚えるという事実が最終共通経路説に対する反証となっているのである。

このような問題に関してベリッジ Terry Robinson and Kent Berridge が提唱したのが、いわゆる incentive sensitization model (ISM)であった。このISMは、簡単に言えば、私達の体験する報酬には二種類ある事を示したのである。緑の光を見た時の「やった!」とシロップを口にした時の「やった!」は脳科学的には別物だという事である。