2023年10月6日金曜日

カップルセラピー その4

昔「自然流精神療法」に書いたエッセイ(結局掲載されず)「夫婦はなぜ喧嘩をするのか?」が見つかった。書いた時期は2001年ごろ。アメリカにいた頃だ。そこで二日間にわたって掲載する。今日はその前半である。

 夫婦はなぜ喧嘩をするのか? 

毎日患者さんと会っていて、いつも感じていることがある。その大多数が配偶者との生活に大きな不満を抱いているということだ。まるでみんな不幸になるために結婚しているかのようだ。それに比べて満足のいく結婚生活を送っている人のなんと少ないことか?

結婚生活の滑り出しはたいてい希望に満ちている。人生でおそらく一番輝いている時かもしれない。相手を気遣い、いたわり、愛情を表現し合う。これからずっとその生活が続くと思う。しかし徐々に何かが変わっていく。ある時ふと思う。「何でこんな人と一緒になったんだろう?」後はため息の付き合い、軽蔑のし合い、憎しみ合い。自分達が最初は相手に胸ときめかせ、幸福な共同生活を夢見ながら結婚したという事実が、まるで何か悪い冗談のように思えてしまうのだ。

私が思うに、結婚生活がしばしば不幸なものになる一番の原因は、そもそも一緒に暮していることにあるのだ。ところが夫婦は一緒に暮すものと相場が決まっている。だから「幸福な夫婦」というのは一種の形容矛盾なのだ。

とは言え、もちろん幸福な生活を送る夫婦もたくさんある。それを否定するつもりなどない。ただそれは圧倒的に少数派なのだ。大部分の夫婦は、お互いに楽しい時を持てず、相手に我慢しながら同居しているのである。それはなぜだろうか?

そんなことを考えるのが、今回の「独り言」である。

 

みんな少しずつ、「こだわり」を持っている

 

まずは話の順番として、こだわりの話から入る。少し遠回りになるが、お付き合いいただきたい。

私たちは皆、何かしら気になることを持っているものだ。それがパターン化したのが、「こだわり」ということになる。大体はくだらない、取るに足らないことだ。ただし本人以外にとっては。そしてそこが大問題なのである。

どこかの番組で、かのSMAPのキムタクが、「夜寝る時は、真っ暗にしないと眠れない。どんなに小さな明かりも、電灯の紐の蛍光でさえも気になってしまう。」というようなことを言っていた。これなどは相当なこだわりだ。

そういえば同じ芸能人では長渕剛が、「家で食事をする時は一人で蚊帳の中に閉じこもって食べないと落ち着かない」、とかいう話をしていたように記憶している。これなどは私たち精神科医が聞くと、ちょっとアブナく感じる。志穂美悦子もこれではたまらなかっただろう。

別段芸能人の例を出すまでもない。テレビで有名人のそんな話を聞くから「へぇー」と感心するだけであり、私たちは毎日こだわりを持った人間に囲まれて生活しているのだ。私もいくつも例を出すことが出来る。

たとえば昨日会ったある中年女性の患者さんは、「細かいことがすごく気になるんです。」というので、「例えばどういうことがですか?」と問うてみた。すると、「少しでも曲がっているものがあると、それが気になって直さずにいられないんです。」と言いながら、私のデスクの上に雑然と積み上げられている書類を恨めしそうな目で見た。これなどよく聞く話だ。

患者さんばかりではない。心の探求を極めたはずの精神分析家もそうだ。かつて私のスーパーバイザーだった、ある初老の分析家の事を時々思い出す。メガネの端をキラリとさせた、神経質なインテリである。ある日私がケースの報告をしている最中に、目の前の彼がいきなり立ち上がった。何事かと思って見ていると、オフィスの端まで歩いて行って、そこに掛けられていた絵の額縁の、私にはわからないぐらいのちょっとした傾きを直して、また戻ってきた。いきなり中断された私が唖然としていると、「イヤー、いったん気がつくと、気になって気になってキミの報告に集中できないんだよ。」と謝った。「まったくベテランの分析家は言い訳がうまいものだなあ」と感心したことも覚えている。

これらは非常に即物的なこだわりの例と言えるだろう。つまり実際の物体に関するこだわりだ。その物体にチョコっと手を加えれば、その場は気が済むのだ。そして「即物的な」こだわりと来たら、今度は「観念的な」ものも考えなくてはならないだろう。これも実際にあるのだ。つまりこだわっている対象が自分の頭の中にある観念やイメージの場合だ。たとえばこんな例がある。

私の知り合いの女性は推理小説のファンだというのだが、途中から犯人が誰だろうかと気になりだし、一ページずつ読んでいるのがまだるっこしくなり、とうとう最後のページから読み始めてしまうという。その彼女にトレンディドラマが10週分入ったビデオを貸したら、それを見ているうちに夜が更けても止められなくなり、明け方までかかって早送りしながら最終回まで見てしまった、と話していた。しっかり結末を見ないとキモチ悪くて床につけないというのだ。これなどは、こだわりが強いために楽しむものも楽しめず、かわいそうな気がする。

 さて、「夫婦はなぜ喧嘩をするのか?」、というテーマなのにどうしてこんなこだわりの話から入るのかよくわからない、という方もいらっしゃるかもしれない。しかし考えても見ていただきたい。こだわりを持った人間の影響をまともに受けるのが、一緒に暮すパートナーなのである。外見がどんなにカッコよく見えた彼でも、キムタクのように就寝の時間になって、「窓から漏れてくる街灯の明かりが気になるから」と言って、一人で押入れにこもられたら、同居するパートナーはシラけ切ってしまうだろう。(もちろん工藤静香には決して許してもらえなかっただろうと想像する。)

結局こだわりを持つということは、ものすごくはた迷惑なことなのである。しかし生きている限りこだわりを持たない人間などいない。そして結婚とは、まさにはた迷惑な人間が同士が生活を共にすることのだ。

 ところが「こだわらない」、というのも結構迷惑な話だ

 ただし、こだわりを持つということ以外にもはた迷惑なことがある。それはこだわりを持たない(と信じこんでいる)ことなのだ。私自身を例に取って話してみよう。私は自分は細かいこだわりとは無縁だとずっと思っていた。若いころは畑正憲や北杜夫のエッセイに出てくるような、旧制高校のバンカラや弊衣破帽の風習に憧れた。実際に下駄をカランコロン鳴らして大学に通っていた時期もある。(服装はといえば、まったくかまっている形跡がなかったそうだという話を当時の知人から聞いた。)そして細かいことにこだわらないことイコール男性的である、という観念を持っていた。これは一種の虚勢であり、反動形勢ともいえる。

そのせいか私は若いころは何人もの人(特に女性)から、「あなたは本当に着るものを気にしない人ね」と言われた。もちろん誉め言葉として受け取っていた。ところが後で気がつくことになるのだが、彼女たちは私を誉めるどころか、実はかなり迷惑していたようである。「気にしない人なのね。」というのは、「少しは気にしなさいよ、イライラするわね!」とメッセージだったらしい。私の中途半端で場にそぐわない格好が、かなり人の神経を逆なでしていたようだ。
 それでも気楽な学生生活の頃は周囲も我慢してくれていたらしいが、医学部を卒業して精神科の医局に入ると事情が違ってきた。何しろ社会人であり、お客さんを扱う仕事なので、周囲も私のいい加減な格好に黙ってはいられなくなったということもあろう。はっきり口に出して言ってくれるようになったのだ。

たとえば私は小さいころから髪の毛はいつも自分でカットしているが、その頃はもみ上げだけが不気味に長かったり、片方だけ短かったりしたらしい。ある年の忘年会で、少しアルコールが入った二年上の先輩の女医さんが、「あなたのもみ上げ、どうして長いの? いつも気になっていたのよね。」と私に告げた。考えても見なかったことだった。ちなみに彼女はまだ独身で、かなりファッションにはうるさかったように記憶している。そして私の髪を見るたびにイライラしていたようなのだ。何しろ適当にカットしているから、そのたびにビミョーな髪形になっていたらしく、彼女にとってはそれが町で見かける普通のカットとあまりに違うので、見るに堪えなかったのだろう。ちなみにその頃の写真を見つけたが、確かにもみ上げあたりが不気味である。しばらく見ていると自分でもイライラしてきた。

この頃は他にもかなり服装にもチェックを入れられた。白い綿のボタンダウンのシャツを洗ったあと、乾燥機から出したチリチリのまま着て朝の外来診療を始めようとしたら、医局のおばさんがあきれて言った。「センセ、いいかげんに結婚して、奥さんにアイロンぐらいかけてもらわなくちゃ駄目よ。」私は綿にアイロンは必要なく、むしろ皺だらけのまま着るのがファッションだろうと、一人で勝手に思い込んでいたのだ。

それ以外にも思い出すだけで、いろいろ出てくる。真冬に夏用の灰色の薄手のスラックスをはいていたり(スラックスに夏用、冬用の区別があるという概念がそもそも欠如していた)、真夏なのに分厚いコールテンのズボンをはきつづけたりしていた。(コールテンはジーンズの一種だと思い込んでいたから、夏冬全く同じ感覚ではきつづけた。そういえば確かに夏は暑苦しかった。)、セーターの肘に穴があくのはごく自然なことだと思い、少なくとも両肘に穴があくまでは着続けたりした。

その頃私にはガールフレンドがいたこともあるが、彼女は私が待ち合わせの場所に現れるたびに、私の着ているものをざっと上から下まで眺めて、何も言わずに深いため息をついたり、目をそらしたりしたことがあった。でも彼女は私を傷つけるのを恐れて、何も言わなかったのだろうと思う。彼女はとても優しい(我慢強い?)女性だったのであろう。 

結婚していよいよ大変なことになった

 先ほども言ったとおり、結婚や同棲は、こだわり同士のガチンコである。何しろ二人のこだわり人間が至近距離にいて生活するからだ。そしてこのこだわりというテーマについて多くのことを考えさせられたのも、私自身の結婚生活を通してなのである。かれこれ14年も暖め続けているテーマなのだ。

私はこだわりを持たない方だと言ったが、それは妻との生活でもある程度は確認できたように思えた。何しろこだわりの程度が全く違う。というよりも私には「どうしてもこれ!」ということが本当に少なかった。もちろんそれ以前の長い独身生活の間に、私は私なりの、それもかなり奇妙な生活パターンを身に付けていたが、それは私の着るものの例のように、私の無知さや社会常識のなさの上に成り立ったものだった。少なくとも着るもの、食べるもの、居住環境(それじゃ、衣食住のすべてではないか!)に関しては、妻は私よりはるかに常識的だったから、私のオカしさをどんどん指摘し、一から指導してくれた。私が先ほど書いたような自分の服装のちぐはぐさを知ったのも、すべてその過程で気がついたことなのである。

やがて結婚してしばらくしてみると、私は彼女の買ったものを着て、出されたものを食べ、彼女が備品を整えたトイレで用を足し、彼女の統一した水色のタオルで風呂上りの体を拭く、ということになっていた。それで私には全く問題はなかった。むしろそれまでに私の生活の中で溜まっていた垢のようなものをきれいにしてもらった気がして、清々したものである。

そのうちに気がついたのだが、衣食住にわたる妻の「常識」には、かなり細部にわたって彼女なりの「こだわり」という「スピンがかかっていた」(英語的な表現である)のだ。彼女から頻繁に受けた「指導」にも、その一部がかなり混じっていたことになる。何しろ彼女は結婚当初から、家具にしてもキッチン周りのこまごまとしたものにしても、自分が「これしかない」と確信を持てるものだけをそろえていくのである。(ちなみに彼女は店で「これしかない」という商品を目にすると、「かわいい!」と駆け寄るのだが、これは言葉では説明できない非常に感覚的なものであり、一種の出会いであるという。)

もちろん誰にとっても客観的に見て唯一「かわい」くて正解なものなどないのだから、結局そこには彼女の趣味やこだわりが反映していることになる。そして彼女が家具や備品のすべてにおいて「出会い」を体験するまで、私は長時間買い物につき合わされた。都合の悪いことに、彼女は買い物には誰かを一緒に連れて行かないと気がすまないというこだわりがあった。また私の方は、人の買い物には決して付き合わない、というこだわりも特に持ち合わせていなかった。そのために結局はため息をつきながら、妻のいつ果てるとも知れない買い物について歩き回ることになったのだ。

 

妻のこだわりとの戦い

 

このエッセイは「夫婦がなぜ喧嘩をするのか?」というテーマなのであるが、私たち夫婦は結構幸運だったかもしれない。何しろ妻のこだわりの多くは、私には「どうでもいい」ことだったので、あまり喧嘩の種にはならなかったのだ。大抵の男性は私よりはこだわりが多いだろうから、例えばバスルームのシャワーカーテンの色や、ハンドソープのフレバーをめぐって彼女と深刻な言い争いになったかもしれない。しかし私は妻のこだわりを、面白がって観察することの方が多かった。その中には、実に興味深いものもあるのである。

例えば彼女は、かかとの皮膚をそーっと指でなぞってみて、ちょっとでも指に引っかかる感じがすると、どうしてもそれが気になるという。そしてそこの部分の皮をむかずにはいられないというのだ。当然完全にスムーズになるわけがないから、次々とむいていくことになる。するとしまいには血の色の透けた薄皮一枚にまでなる。そしてそれを私に無理に見せて、「ヒエー!」という反応を確認して満足するという悪趣味を持っているのだ。私には体の一部をいじめるという趣味はないので、見ていて実に勉強になる。それに彼女が私のかかとの皮まで剥こうとするならモンダイだが、あくまで自分ので満足しているのだから、私には完全に他人事なのだ。

私の思春期の息子もこだわる方である。たとえば「何かが取れそうで取れないブラブラの状態のものがやたらに気になる」というのだが、これなどは明らかに妻から遺伝したものである。

ある時息子と妻がキッチンで何かの話で盛り上がっていた。「あの時のあれ、気になったよねー。」と話が合っている。聞いてみると、二年前に私の田舎に帰った時、私の父の腕についていたかさぶたがほとんど剥がれかけていて、何かの動作のたびにプルプルしていたという。私など気がつきもしなかったが、二人とも目ざとくそれを見つけ、思わず手を伸ばして引っ張ってはがしたい衝動を抑えるのが大変だったという。そしてそれを今まで引きずっているというのだが、いったいどういう親子なんだ???