エッセイ「夫婦はなぜ喧嘩をするのか?」の後半である。
私達の作ったパターン
結婚生活も何ヶ月かになると、被っていた猫もどこかに行ってしまう。そうしてお互いの本性が次第に明らかになってくるし、それにつれて夫婦の関係性が変わってくる。それは私達夫婦の場合も同じだった。だいたい、こだわりのない人間と、こだわる人間が一緒に暮すと、結果は目に見えているようなものだ。妻は目一杯こだわれる一方、私は妻のこだわりに一方的に影響され、感化された。しかし感化されたといっても、私が妻のこだわりを引き継いだというわけではない。もともとどうでもいいことについて、その場は妻の流儀に従っているだけだ。そこに大きな苦労を伴ったわけではない。だから私が本来持っていてなかなか治らない癖は自然と残ってしまい、それが結果的に妻をイライラさせるのだ。
この妻のイライラはわかる。何しろ私は前にも書いたとおり、特に配偶者でもなくても、人をイラつかせてきたからだ。ところが妻のそのイライラにこんどは私がイライラさせられる。というのも私は「どうせ一緒にいるんだから、楽しくやろうや。」という主義である。一緒に暮らしたり、仕事をしたりする以上は、相手に対してイライラするべきではない、というこだわりだけは人一倍あるのだ。だから私は妻にイライラされることだけは無性に悲しいし、悔しくもなる。その結果として自分自身がイライラしてしまう。ここで私がイライラしてしまえば、全く意味がなくなってしまうのだが、そうとわかっていても感情がついていかないのが、こだわりというものである。
こうなるとお互いに日常的に交わすメッセージは決まってくる。彼女は「何度言ったらわかるの?いい加減にしてよ、もう。」であり、私の方は「頼むからそんな細かいことでカリカリするのはやめてくれよ、もう。」これで平行線になってしまうのだ。
ただし中には少し工夫するだけで、この種の衝突を防ぐ方法が見つかることもあった。例えばこんなことである。結婚して数年間は、家族との外出時は私が車を運転していた。運転は男がするもの、という意識があった。しかし私の運転のし方が、妻からするとかなりでたらめで、イライラするのだという。たとえば私には、片側が二車線の道路で路肩からの距離を空けすぎる傾向があるらしい。そして車が中央により過ぎ、センターラインを踏んで走る癖があるらしい。「らしい」、というのも妻が指摘するまで全くどうでもいいことだったからである。
もちろん横に別の車が並行して走っている場合には、やたら接近しないように気をつけるが、前後に車がいなくなると注意も緩み、いつの間にか二車線の中央に車が近づいてくるのだ。もちろん自分におかしなことをしているという気はない。安全でありさえすれば、後は気楽に運転したいからだ。
ところが妻がこれを感覚的に受け容れられないのだ。「ねえ、頼むからセンターラインを踏んで走るのは止めてくれない?キモチ悪くってしょうがないのよ。」ときつく睨むのだ。(ちなみに彼女の行動を決定するのは、この「キモチ悪い」か、「かわいい」か、ということらしい。ただし私にはいまだに彼女にとって何が「キモチ悪」くて、何が「かわいい」のかが読めていない。)
あるいはこの先に車が曲がる方向をわかっていて、そのために早めに必要な車線に入っておく、ということも私は得意ではない。「その時でいいじゃん。」という調子なのだが、これがまた彼女をイライラさせる。「ほらほら、速く車線変えて。それからウインカー、ウインカー。ちゃんと教習所に行ったの?」何しろ彼女は日本では電車に乗る時には、目的の駅で下りた際に階段に一番近いのは何両目の何番目のドアだか、ということを常に考えて乗るということを励行していた人である。そういうことが何より得意なのだ。これでは私はかなわない。
そこで家族で久しぶりにドライブに出よう、という時などに、やっと高速に乗りスムーズに車を走らせ始め、家族どうしが他愛のない会話を楽しんでいる時に、妻が「ギャ、また踏んでいるじゃない!」と私を責め、それで私が一気に不機嫌になる、ということがよくあった。彼女にすれば、「どうして楽しいドライブを台無しにするの?アタシが嫌なのを知っていて、ワザとセンターラインを踏んでいるんじゃない?」と、こうなる。実に不思議なのだが、彼女は私が本当に駄目人間だということを信じない。「あなたに私に対する優しさがないから、私が言ったことをすぐ忘れるんでしょう。」と解釈する。もしそれが本当なら、ある意味では安心するのだが、実際は頭のどこかのネジが二、三本ゆるくなっているからであり、時々このままボケたらどうしようかと心配しているのが現状なのだ。
ある時、私たちはこう決めた。外出の時は、彼女が常に運転することにするのだ。何しろ明らかに彼女の運転の方がうまく、しかもこだわりが多いのだから、私はいつも助手席でおとなしくしていればいい。「運転は、一家の主人が・・・」などというプライドを捨てればいいのだ。妻はすぐにそのアイデアに同意した。そしてそれを実行してみると、これがまた快適なのである。車での移動時の喧嘩はこれで一挙に解消してしまったのである。
ただしこれには後日談もある。彼女は運転技術が勝っている分だけ、結構ぎりぎりの事をする。歩行者の動きを読んで、すれすれのタイミングでその横に車をすべらしていく。駐車の際も、隣の車とギリギリの距離を、結構思い切りよくターンして、一回で入れていく。すると車両感覚の乏しい私は助手席から「あっ、危ない!ぶつかる!」となる。これが妻には著しく癇に障るのだ。「何よ、びっくりするじゃない!人を轢きそうになっているかと思ったじゃない。やめてくれる?」となる。「いや、万が一そこの歩行者に気がついていないかもしれないと思ったんで・・・」「そんなの見えているに決まってるじゃないの!」
結局助手席でも私は彼女をイライラさせるのだ。そこで私は彼女に命を預けたつもりになって(大げさか?)一切口を出さないようにするのだが、それでも小声で「あっ」と出てしまう。それに10回に一回の割で彼女は、「あらゴメン、見えてなかったわ。」などとシラッと言うから、私はこれをやめられないのである。結局私は助手席で「あっ、危ない、あ、ごめんごめん、でも、あっ、危ない、あ、ごめん」とわけのわからないことをつぶやき続ける悲しい運命にあるのだ。
実は私にもこだわりが結構あった
さて、以上はみな私の言い分であるが、これで終わるわけがない。私は妻がこのエッセイをここまで読んだ場合(これまでの経過からして、まずありえないことだが)の反論がある程度予測できる。それは最近この問題について話しあう機会があってわかったことだ。
彼女の反応はこうだろう。「あなたがこだわりがないって?トンデモない! 存在そのものがこだわりの塊だってことがわからないの?」つまり私の方こそ強烈なこだわりを持っていると言うのだ。そしてそれはとても根が深くて直しようがなく、彼女ももう諦めているのだという。これはオカしいではないか?私はこだわりの少ない人間のはずである。いったいどこがこだわっているのだ?すると彼女は次のような具体例を次から次へと挙げてくるのだ。
たとえ病気でも、仕事に出ないと気がすまないこと(そういえば、今の職場に勤めて8年、風邪で休んだことは一日もない)。【注釈:明らかに米国に暮らしていた時に書いた文章。2001年くらいだろうか。】あるいは仕事を休んででも家族にサービスをしようとは絶対にしないこと。毎日書くことを止めず、いつも次のテーマのことばかり考えていること。そもそもアメリカまで来て、頑固にい続けて家族に迷惑をかけていること。古いものを捨てようとせず、ゴミばかり溜めていること。新しい服やジーンズを買っても着られずに、結局取っておいて古いものを擦り切れるまで切ること。典型的な貧乏性で、高価だが品質のいいものを決して買えないこと。人の話(特に妻の話)を真剣に聞かないこと・・・・ こうやって次から次へと出てくるのだ。
彼女によると、私と生活をしていると、私の仕事用のデスクあたりから、カオスがドンドン広がってくるのだ。そして無整理、無秩序、キタない、臭い、の波が家の他の部分にまで寄せてくるのを彼女は必死に食い止めているのである。そして同時に彼女は私のデスクや本棚の周囲を「見ない」事にしてやっと我慢しているというのだ。うっかり見てしまうと頭がおかしくなりそうだからだという。ウーン・・・・
さらに彼女の指摘は私の人格にも及ぶ。相手が権威だと見ると、すぐムキになって挑戦的になる。一度決めたら頑として、周囲の迷惑も考えずに続けようとする。徹底して自分の好きなように物事を運ぼうとする。その意味で協調性がなく、非常に自己中心的である・・・。
なるほど言われてみると、確かに彼女の主張はだいたい当たっているのである。確かに私は衣食住の表面的なものに関してはこだわらないように見えるが、仕事にしても書くことにしても、もっと自分の思う通りに出来ないか、どうしたら規則に縛られないで済むのか、嫌いな部分をもっと減らせないか、どうやったらその中で「遊べる」のか、ということばかり考えている。一見日常生活にこだわらず、妻のこだわりに寛容なのも、結局は自分の好きなようにやらせてもらっていることに対する後ろめたさが関係しているのだろう。そして妻はそんなことはとうの昔にわかりきっていたと言うのだ・・・・。実に冴えている。さすが私の選んだ妻である。
私は妻の言い分を聞いて、私達の関係性の「全体像」のようなものがちょっと見えた気がした。本当はどうしようもないこだわりを抱えているのは私の方なのだろう。しかしそれが日常生活のレベルでは見えにくい種類のこだわりであるだけなのだ。その意味では本当に耐え忍んでいるのは妻の方ということになる。
そこで私も開き直った上で、こう言うしかない。結局こだわりのない人間などいないのだ。表面にでこぼこのない、球面のような円満な人格など現実にはありえないし、もしそんな人がいたとしてものっぺら坊みたいで全然面白くないだろう。表面のでこぼこ、ゴツゴツがその人らしさなのだ。こだわり続けることは、ある意味では自分自身を守り、維持するうえで必要なのだろう。(しかし我ながら見事な開き直りっぷりだ。)
しかしこだわりを守りつづけることは必然的に、人と人との同居に大きな試練を与える。毎日の生活は、こだわりのぶつかり合い、一種の戦いの色彩を帯びる。最初はバラ色の生活を夢見て結婚した二人は、あまりの理想と現実の落差に愕然とするはずだ。だが一緒に暮らすと決めた以上、お互いのこだわりに耐えながら、それに自分をできる限り適合させながら生きていくしかない。こうして時にはうんざりし、時には自分の運命と諦めながら、こづきあい、支えあい、夫婦は人生を共に歩んでいくのである。もちろん夫婦がお互いに理解しあうことにより、より幸せな同居生活を送ることが出来るかもしれない。しかしそのための作業には絶大なエネルギーが必要だし、私達の多くがそれを捻出できないとしても無理はないことだ。かくして世の多くの夫婦は口喧嘩が絶えず、「どうしてこんな人と一緒に・・・・」と不幸な顔をして年月を重ねているのだ。(ただし彼らが本当に不幸かどうか、ということについてはこのエッセイでは触れていないことは、読者の皆さんもお分かりと思う。)
それでもどうして人は一緒になるのか?
これまで述べたことから、人間はもともと仲良く同居することには向いていないと結論付けざるをえない。こだわりを持つことが人間の本性である以上、これも宿命と言える。ただしもちろん人間は、動物学的に見てパックアニマル、つまり群居動物であることは間違いない。だからあえて、仲良く同居することには向いていない、と断ってあるのだ。一つ屋根の下で、口喧嘩をし、小競り合いに消耗しながらも、結局は同居を選択するのもまた群居動物ならではである。
それにしてもどうして私たちは懲りずに結婚するのだろうか? 一緒に暮すようになると関係性がすっかり変わってしまうということを、両親の夫婦喧嘩を始終目にしても、実際に結婚生活を通して身をもって体験しても、どうして学習することをしないのはなぜか? それは恋愛が一種の妄想に基づいたものだからだ。恋愛とは、相手を唯一の、究極の対象と見ることだ。その相手となら奇跡が起こり、一生幸せに暮せる、という非現実的なことを信じ込む。これは一種の妄想であり、だから人は懲りずに、理想の相手との同居を目指すのだ。
アメリカでは何度も結婚と離婚を繰り返す人が少なくないが、それはこの事情を端的に物語っている。そして結婚式のたびに、「死ぬまで添い遂げます。」と本気になって誓うのである。しかし実際に添い遂げている夫婦にしても、事情はさほど変わらない。別の異性に憧れの気持ちを抱き、「あの人と結婚していたなら本当に幸せになれたかもしれないのに。」という夢想を、既婚者は一度や二度ならず持つものである。結局は人間である限り、皆この妄想を潜在的に持っている。ただし実際にそれを行動に移すかどうかとは、別のレベルの問題なのだが。
では人はどうしてそんな妄想を持つ必要があるのか?それは人がつがうためのはずみとして神様が人間に備えたものだからだからだ。恋愛も、性的交渉も、改めて考えればこれほど気恥ずかしくて、グチャグチャしていてバッチイものはない。それこそ妄想でも持たない限り、相手を見つめあったり舐め合ったり、これから一生を共にするという誓いなど立てることなど考えられない。
そして子孫を残すためには、そのようにして生まれたつがいが何より好都合となる。つがいの二人がぶつぶつ文句を言い、互いにため息を付き合っても、両親としてまともに機能してさえくれれば、とりあえず子供が無事に育つ環境が提供される。
いわば生物としての人間は、妄想に導かれて結婚して子供をもうけた時点で、その役割は半ば終わっているといってもよいのだ。その後もつがいが幸福に余生を送れるかかどうかなど、自然の神様にとっては二の次、三の次の問題なのだろう。
では本当に大方の夫婦は、決して幸福とはいえないような関係を、運命として受け入れる以外にないのか? 私は治療者であるから、そこにやはり何らかの希望を抱いてしまう。夫婦ができるだけ幸せに同居するために持つ心構えが存在するのではないかとあれこれ思案するのを止められない。たとえば次のような手段を考えてみる。
一つには、同居している相手は出会った時の相手とは違う存在であるということを十分に受け入れることだ。同居はしばしばその人の人格を変え、場合によっては一種の狂気にまで駆り立てる。夫婦間の暴力や虐待に関しても、その原因の一端はこの狂気にある。しかし同居により相手が見せている姿が相手の本性とは限らない。ただ別の人格なのだ。そう考えることで、相手に対する失望も軽減するかもしれない。また逆に好きな人でも、一緒に暮らせば豹変することが分かっているならば、縁がなかったとあきらめるより仕方ないだろう。もう一つは、同居することで相手にとっての自分自身も変わってしまうというプロセスを自覚することだ。私は患者さんに次のような言い方をよくする。「同居していると、相手があまりに近い距離にいるので、全体が視野に入らず、自分とは別個の一人の人間としてイメージできなくなるんです。時には、もののように扱うようになっちゃうんですよね。そんな場合は、ちょっと距離をおけばその姿を再び捉えることが出来るでしょう。そしてその人に対する敬意や、心遣いを再び思い出すことができるかもしれませんよ。」
ただしこれらを口で言うのはたやすく、実行は難しい。何より私がこれらを実行できているとは、とても思えない。結婚カウンセリングなどはいくら面白そうでも、到底自分にはそれを行う資格がないだろう、とため息をつく毎日のだ。