2023年9月9日土曜日

共感3

 ただしこのように言ったからといって、もちろん治療者は無意識レベルでの関りをしているのだから、意識レベルでのそれをおろそかにしていいという事には決してならない。「無意識レベルの理解には、まずは意識レベルの共感は必然ではないだろうか?」というのが私の主張である。これはどういうことか?
 はるか前に精神分析を始めて受けた時、事実上初対面であった私の分析家ドクターKは最初からあまり表情を表さず、どちらかと言えばつっけんどんで、挨拶もそこそこにすぐカウチに横になり、自由連想をするようにと言われた。私も言われるがままにそうした。それから5年間週に4回ないし5回会うことになる間柄となったわけだ。今から考えるならばもう少し普通のあいさつや自己紹介があっていいものではないかと今なら思うが、当時は特に疑問に感じなかった。「意識レベルで起こる挨拶や普通の会話は重要ではない。自由連想を介しての無意識レベルでのやり取りこそが重要なのだ」と私は思っていたし、当然私の分析家のドクターKも同様に考えていたと思った。
 ただし私がカウチで始めた連想は、結局は堅苦しいものとなった。私のこれまでの経緯などについて、特に子供時代について話すことになった。しかしおそらく最初に語るべきだったのは、少なくともはじめのうちは「ドクターKはどんな先生なんだろう?私のことをどう思っているのだろうか? 不安だな・・・・。私の過去とか秘密が暴かれていくのかな?」という感じだっただろう。心に浮かぶことをそのまま話すのが自由連想の原則だからだ。そしてこれらはもちろん概ね意識レベルでの話だ。そしてドクターKも私のその様な言葉を聞いて私の胸の内を察したであろう。きっと心の中では「最初は皆そんな気持ちになるものだ。私自身が何年か前に最初にカウチになった時のことを思い出すな。」
 初対面の人間があった時、おそらくそこで最初にかわされるのは言葉であり、それ以前に持っていた言語外の感情、思考などはそれにより大きく修正されていくだろう。例えば出会った瞬間に「上から目線の人だな」という印象を持ったとしても、話しているうちに相手がこちらに対して警戒心を持っていたことがそのように感じさせたのだ、という事が分かったりする。
 次のように言えるだろうか。言語外のメッセージは様々なものを含み得、様々な感じ取られ方をする。ロールシャッハの図版のようなものだと考えるといい。しかし言葉を交わすことで様々なことが更に了解され、それを介してお互いの非言語的な関係が進む。海外のみ知らぬ土地で出会った東洋人が、実は日本人でしかも同郷だという事が言語的な情報交換で分かったとしたら、二人の情緒的な関係はぐっと近づいたりするのだ。とすると最初の言語的な交流はやはり重要で、お互いにお互いの意識レベルにある内容から照らし合わせていくという作業は、その先の無意識レベルの理解に先立ってどうしても必要になるわけだ。