現代の精神分析における共感の定義
ここに精神分析における共感の定義の一例を示しておこう。少し古いが、だいたい現在の精神分析の考える共感についての大枠を捉えていると言えるだろう。
「共感は精神分析を実践する上で重要な前提となる。」「共感は感情的、認知的、推論的、合成的など様々な要素を含んでおり、それらが一つにまとめられて初めて精神分析治療の材料となる。」「精神分析的な自己心理学の視点から見ると・・・・・」(精神分析辞典, Moore & Fine,1990)
Moore & Fine (1990) Psychoanalytic Terms and Concepts. Yale Univ. Press.
先ほどコフートの共感の理論は精神分析の世界では黙殺されたとしたが、この定義を見る限りは、すでに自己心理学を一つの精神分析の流れとして取り入れ、そこで共感が取り上げられたこと自体を容認したうえでの定義と言える。ただコフートの提唱した「共感」は、その初期の段階では科学的、客観的なデータ収集の方法というニュアンスが強いことも確かであった。科学主義的な当時の精神分析の世界観を反映した提示の仕方をコフートが慎重に選んだのかもしれない。
ただしコフートの主張の斬新さは、自己対象に関する理論を提示し、自分に肯定的なまなざしを与え、また理想化の対象となるような対象(自己対象)が健全な自己の発達にとって必要であることを示したことである。コフートは共感が二人の間で完全に行われることはないと考えていた。それは母子の間の関係性についても言えるが、治療者-患者関係においても同様である。そして治療者自らが「共感不全」に気が付き、それを治療的に取り上げることがより深い患者の理解に繋がると考えた。その後共感の重要性は乳幼児の愛着の研究や関係論において暗黙の前提となっていったのである。
ここで精神分析的な共感の理解が本来的に持っている課題について考えてみたい。これまで前提として論じてきたような見方、つまり以下に示されるような考え方は果たして正しいのだろうか?
表出的アプローチの目標・・・無意識レベルの理解(患者は自由連想により、自分の無意識 レベルからの声を自分自身に検閲を与えることなく語るため)
支持的アプローチの目標・・・意識レベルの理解(共感:患者は現実的な事柄について)
概ねその様に理解できるかもしれない。だからこそ主として無意識を扱うことが前提の精神分析には、コフート理論が当初受けた扱いに見られるように、共感というテーマはそぐわないもの、異質なものという扱いを受けたのである。しかし改めて考えてみよう。無意識レベルでの理解は意識レベルでの共感とは別個に存在するのだろうか? 必ずしもそうではないだろう。例えば私たちは患者から非言語的なメッセージを受け取ることがある。それは何となく、そして意識的に把握されることなく、私達の思考や判断に影響を与える。そしてそれは場合によっては意識化され、言語化されることになる。そしてその言語化された思考は翻って、私達の非言語的で情緒的な在り方に影響を与える。その意味では 結局無意識レベルの内容と、意識レベルのそれは、入り混じっていて区別できない場合が多いのである。