最終共通経路とその矛盾
最終共通経路という理解は私たちに人間に対するある種の失望を与える傾向がある。何しろすべての快感は脳の中では同じものなのだというのだ。すると快感には高尚なもの、精神的なものと卑俗的なもの、原始的なものの間に区別がないという事になる。高僧が何年も山にこもり瞑想を続け、ついに自分と宇宙が一体であることを悟り、安らかな幸福感を味わったとする。この幸福感は精神的なものであり、それは人間が苦難に耐えた末に最終的に求める満足感に近いものと言えるだろう。それに比べて賭け事をしたり薬物を用いたりして得られる快感は刹那的であり、動物的であり、価値がないものという感じをわたしたちはもたないか。
ところが最終共通経路説は、少なくとも脳で起きていることは同じであることと唱えることになる。自然な環境で得られる快感を得た状態を「ナチュラルハイ」と呼ぶが、それは健康的なものであり、薬物によるそれはまやかし、病的なものという先入観が私達にはある。しかしいずれも快感中枢が刺激された状態で脳がそう感じさせているだけなのである。しかし前者をより健全だと思うのは、後者のような快感には、本来味わってはいけない快感であるという後ろめたさが伴うからであろうか。
精神分析の祖であるシグムンドフロイトが精神分析理論を発見する前にコカインという物質に非常に興味を惹かれていたことはよく知られる。フロイトもまたコカイン吸入により得られる多幸感を精神的な満足と同じものとしてとらえたようだ。そして彼はコカインが精神的な問題を解決する万能薬であると考えたようだ。フロイトは抑鬱的な気分や不安にさいなまれることが多く、それが和らぐためにはどのような手段があるかを常に考えていた。もともと神経解剖学で大成することを目指していた彼だが、それを諦めた彼がやがて心の苦しみを救ってくれるような手段を追い求め、発見することを人生の目標にしたのは、彼自身の苦悩が関係していたと思われる。そしてその彼が、コカインが心の苦悩を消し去ってしまうものとしてその発見に有頂天になる時期があったという事は、この最終共通経路が主観的には正しいことを物語っているものと思う。
ただしこの理論に従っても、やはりナチュラルハイとギャンブルやドラッグによる快感の「質」の違いを説明することは出来る。それは前者は大概努力の見返りとして得られ、再びその快を得るためには、同じ努力を繰り返さなくてはならない。つまり簡単には得られないからこそその快感は貴重なわけだ。考えてもみよう。オリンピックで金メダルを得て「チョー気持ちいい」という体験を持ったとしても、それを繰り返すためには苦しい4年間のトレーニングが必要であり、それでも金メダルは決して保証されるわけではないのだ。ところがコカインを吸入した時の快感は、おそらく金メダルをはるかに凌駕するものであり、しかもそれを簡単に味わうことが出来る。(ただし最初の快感は、決してもう味わえないと言われてはいるが。)そして依存症はほぼ間違いなく、その快感を短期間で繰り返し味わえるという状況で生じる。コカインなどは数日に一回の頻度で何回かそれを味わうことで依存症が出来上がってしまい、それは一生その人を苦しめることになるからだ。(フロイトがコカインにほれ込んだ時、彼はまだそのことを知らなかったのだ。)