発達障害とPD
発達障害についての認識が高まるにつれて、従来のPDの分類にとりわけ大きな影響を与えたのが、DSMのカテゴリカルなPDの分類のうちA群に属するスキゾイドPDやスキゾタイパルPDである。DSMのスキゾイドPDは「社会的関係からの離脱および全般的な無関心ならびに対人関係における感情の幅の狭さの広汎なパターンを特徴とする」(DSM-5)(DSM-5)とされた。要するに「関係が希薄で孤立傾向のある人」は、DSMにおいてはスキゾイドPDやスキゾタイパルPDに属するものとして理解されて来たのである。しかし神経発達障害についての関心が高まるにつれて、これまでそれらに属すると理解されてきた人の一部は、実は発達障害に該当するのではないかと考えられるようになったのである。DSM-5及びDSM‐5‐TRでは、スキゾイド、スキゾタイパルPDについては神経発達障害との鑑別について言及されているものの、その記載には明確さを欠いているという印象を受ける。
さらにはDSM-5の作成段階ではスキゾイドPDという概念の処遇そのものが問題とされたという。そしてそもそもスキゾイドPDという診断がまれであり、削除されるべきとの案もあったという(織部, 鬼塚 2014)。結局DSM-5の第3部に所収されたPDの「代替案」からは、スキゾイドPDの名称が消えることとなった。そしてそれが「感情制限型」と「引きこもり型」に解体され、それぞれをスキゾタイパルPDと回避性PDに分けられるという方策がとられたという(織部, 鬼塚 2014)。(織部直弥、鬼塚俊明、シゾイドパーソナリティ障害/スキゾイドパーソナリティ DSM-5を読み解く 5 神経認知障害群、パーソナリティ障害群、性別違和、パラフィリア障害群、性機能不全群 神庭重信、池田学 編 中山書店 2014 pp171-174.)。
筆者もまた従来のDSMにおける上述のスキゾイドPDの定義に合致するような、人に関心もなく、こころも動かないような人間はそもそも稀ではないかと考えていた。一見そのようなふるまいをする患者の多くは実は対人場面でぎこちなさを自覚し、緊張するという体験を持っているのがふつうである。そしてスキゾイドPDの代わりに残ったスキゾタイパルPDは、「関係念慮、奇妙な/魔術的思考、錯覚、疑い深さ、親しい友人の欠如」に続いて「過剰な社交不安」(DSM-5)が挙げられている。つまり従来スキゾイドPDと呼ばれていた人々は、実は恥の感情に悩む側面を持つものとして再概念化されたことになる。そしてそれらの中にASDが含まれている可能性があるのだ。
むろん神経発達障害とPDは異なる疾患概念である。しかし両者はいずれもソーシャルスキルの低さという点において共通した特徴を持っている。そして両者の特徴を備え、どちらかに分類することのできない人々が多いと考えるべきであろう。
ちなみに私がここで述べた考えの証左となるような研究もおこなわれている。ASDとPDとの違いについての研究は散見されるが、そこで強調されることの一つは、ToM(セオリーオブマインド、心の理論)ないしは社会的認知(social cognition (SC))との関連である。ToMとは要するに他人の心の状態をどの程度理解できるかという問題である。ある研究はASDとスキゾイドPD、スキゾタイパルPDとの鑑別が一番難しいというDSM-5の記載を受けて、両者における社会的認知の欠陥の程度を調べた。Booules-Katri らはadvanced ToM test を、ASDとスキゾイド/スキゾタイパルPD、コントロール群に実施した。このadvanced ToMというテストは情緒コンポーネントと認知コンポーネントに分かれるが、ASDでは両方が低かったのに対し、スキゾイド/スキゾタイパルPDでは明らかに認知コンポーネントが低かったという。またStanfield 達はfMRIで社会的認知を調べ、扁桃核の興奮がスキゾタイパルPDで見られたという。そしてこれはASDではSCが低く、スキゾイドでは高いという説だけでなく、スキゾタイパルPDでも感情は動いているということを示していることになる。
ともかくもこのASDに対する関心の高まりがもたらしたのは、PDの概念に神経発達障害的な要素を読み込まないという従来の方針は理屈に合わないのではないか、ということである。これとの関係で、ICDではASDスキゾタイパル、cyclethymic OCD CPTSD などについて、それはPDに重なる点を認めるものの、あえて個別のPDを診断することには抑制的な記述がみられる。p.517 ただしもう一つの方針としては、PDも診断につけるという形もあり得るだろう。