この原稿、ずいぶんペンディングになっている。まだ締切りは随分あるが。要するにパーソナリティ症(PD)をどのように考えるべきか、という本質的でかなり錯綜した議論に関わってくるからだ。はっきり言ってPDはその概念自体が持つ意味を問われ直そうとしている。トラウマや発達障害を除いたPDっていったい何だろう? 純粋なPDってあるんだろか?という話なのだ。
パーソナリティ障害 personality disorder (以下PD)に関する議論は近年大きく様変わりをしている。DSM-5(2013)において、DSM-III以来採用されていた多軸診断が廃止されたことや、それまでの10のPDを列挙したカテゴリカルモデルに代わりディメンショナルモデルが提案されたことなどは、その顕著な表れと言えるであろう。PDがいかに分類されるべきかという問題とともに、そもそもPDとは何かを問い直すという、いわばPD概念の脱構築に向けた動きが起きていることを感じるのは私だけではないだろう。
かつて私は、以前のカテゴリカルなPDの概念は、その一部が別のものに置き代わっていく可能性があると論じた(発達障害とパーソナリティ症の鑑別の仕方、精神医学 2023年最新号)。PDとは思春期以前にそのような傾向が見られ始め、それ以降にそれが固まると考えられている。そこには遺伝負因や環境因が大きく影響しているはずであるが、そこについては特に問われることなく、いわば人格の形成の時期に自然発生的に定まっていくものというニュアンスがあった。しかし最近広く論じられるようになった発達障害的な要素や愛着の問題や幼少時のトラウマの影響が、その人のパーソナリティに影響を与えないと考えない方が不思議であろう。
ただしICD-11のPDには、発達的要因、社会的要因、文化的要因によるものではない、と記されている。これは字義通り読めば、発達障害やトラウマの影響を除外せよ、ということになる。そしてそのICD-11で採用される形となったディメンショナルモデルによる分類は、パーソナリティを構成する因子群(例えば5因子モデルのそれ)に基づくものであり、多分に先天的、遺伝的なニュアンスを含むことになる。
言い換えればこういうことになる。「PDは生まれ持った性質であり、神経発達障害やトラウマの影響を受けた場合には、それとは別個に診断名を設けよ。」ただしこれは無理な話である。人が思春期までに持つに至った思考や行動パターンは言わば先天的な要素と発達障害的な要素(これも言ってみれば先天的なものといえるが)とトラウマや愛着障害のアマルガムなのである。それをPD, トラウマの影響、神経発達障害に切り分けることは極めて困難であり、あまり意味を持たないであろう。
このような議論にとって格好の材料となるのが、ICD-11に新たに加わったCPTSDである。これはPTSD症状とDSO(自我の障害)の複合体としてとらえることが出来るが、後者のDSOはそれ自身が繰り返されるトラウマの影響として備わった性格傾向ということになる。これとディメンショナルモデルによるPDとの関連は定かではないのである。