この幽体離脱の体験は不思議としか言いようがないが、「なぜそのようなことが起きるのか?」ではなく「(私達の脳や心においては)そのようなことも十分に起きうるのだ」と考えるべきなのだ。ではこの幽体離脱をもう少し深く観察すると何が分かるのかと言うと、実はこれは主体が二つに分かれる、ないしは突然二つが共存するという現象だ。ここで私が「分かれる」と思わず言いそうになったが、実際にこの現象を「意識のスプリッティング(分割)」と捉えたのが、一世紀以上前のS.フロイトやP.ジャネだったのだ。1800年代の終わりに人々がこのような不思議な現象に注目するようになった時、まず心のエキスパートたちが考えたのは、「ああ、このようにして心は、意識は二つに割れるのだ」という理解だったのだ。これはこれで悩ましい話だ。というのも古今東西人間は自分の心が一つであることにあまり疑問を抱かずに過ごしてきたからだ。誰だって「自分はもう一つの自分を持っている」というようなことは認めないであろうからだ。第一もう一つの自分がいたとしたら、この私はどうなってしまうのだろうと不安になって当然だからだ。
上の幽体離脱の例を用いて、実際にどのようなことが起きているのかを考えよう。
最初からあった意識をAとしよう。それはある時身体から遠ざかった(離脱した)という体験を持つ。そして自分を外側から俯瞰するという、これまでに体験したことのない体験を持つことになる。さて問題は、叩かれている、すなわち体に残っている意識Bも存在するということだ。これがどの様に、どこから生まれるのかが、精神医学的にも脳科学的にも実は全くわかっていないのである。ただしそれも意識として体験され得るということだ。
解離に関する研究で有名な、柴山雅俊先生がいらっしゃる。彼の著書「解離性障害」(ちくま新書、2007年)という有名な本があるが、そのサブタイトルは「『後ろに誰かがいる』の精神病理」 というものである。先生は解離性障害の患者さんの多くが「誰かが後ろにいるような気がする」という体験を持つことを論じた。このことは上で論じた幽体離脱と実にうまく重なる現象だと思う。つまり後ろにいるのは「もう一人の自分」というわけだ。彼は「存在者としての私」と「まなざしとしての私」の分離という言い方もしている。(「解離の舞台 症状構造と治療 柴山雅俊、金剛出版、2017年)
つまりこういうことだ。意識Aの体験は自分を外から見ているというものであり、意識Bの体験は、自分が誰かに見られているというものである。そしてそれは別々に体験される。決して「自分は見ていると同時に見られている」という形をとらない。(そのような体験もあり得るのかもしれないが、普通患者さんからは聞かない。)
この意識Bの体験というのは、実は体験とも言えないかも知れないような、奇妙なものなのだ。それはある意味では心ここにあらずといった、あるいはボーっとした、いわば「体験未満の」体験であることが多い。過酷な体験をしている間、人は「叩かれても痛みを感じず、何か夢を見ているようだった」と表現することが多い。つまり体験としての解像度は低く、そのスペックもかなり小さいということになるだろう。白黒画面で、それも視界にボンヤリ何かが映っているような、うつろな体験。寝ぼけている時の私たち、あるいは麻酔薬が効いていて朦朧としているような状態がこれに相当するであろう。そしてこの感覚の解像度の低下はとても重要な事であり、そもそもこの種の意識A,Bの解離は、痛みを軽減し、その為に心身を麻痺させるという目的があったからである。
さて以上は幽体離脱という、多くの私たちがかつて体験したり、これから体験する可能性のあるものである。そしてA,Bとの間には解像度の差があり、どちらかと言えばAの方が主たる体験というニュアンスがある。しかしDID(解離性同一性障害)等の場合、人格Aと人格Bはかなり対等で、主格の差がないような体験となる。Aが現実の世界である体験をしている間、Bはそれを傍観する。別の場面ではそれが逆転するという形をとるのだ。そして個々でも通常A,Bが混じることは普通は起きない。あたかも二人の別々の人間が、別々の体験をしていることと同等のことが起きる。そしてまさにこの事実から解離性障害の脳科学的な理解が始まるべきなのである。ところがその糸口はない。何度か強調したことであるが、古今東西の哲学や文学や精神医学は、心は一つという前提や了解事項を抜け出していないのだ。私がこの連載でかつて5回にわたって論じた内容も、結局は心が一つという前提を抜け出していなかったのである。意識やクオリアといった、心にとってあれほど本質的な事柄について論じた前回も、心の多重化などということについては私は全く触れなかったのである。