全体で12回(一年間)という約束でお引き受けしたこの連載も、今回が6回目である。すでに曲がり角に来たわけだ。最初はどのような方向に筆が向かうかを分からずに、ただ書きたいことはいくらでもあるだろうと思い、書き始めた。その後はだいたい前回の内容に連続性を持つ形で次の回を執筆している。しかし全体的な方向性はまだ見えてこない。それもそのはずで、脳科学とは膨大な領域であり、しかもわからないことばかりだ。体系立てて論じようとしてもその手掛かりがつかめないのだ。そこで書いているうちに自然と方向が定まるだろうと思い、書いてきた。
このようなあてどのない連載を読む方々には迷惑な話かもしれないが、実は書いている私は確実に考えが進んでいる。その結果として見えてきた部分と見えない部分が徐々に明らかになって来ていることを実感している。
ただし心とは何か、脳とは何か、AIとどこが違うのか、というやや大づかみで漠然とした議論よりもう少し具体的な話、例えば精神医学の対象となるような病気について話題にした方が読者も興味を持つのではないかと思う。そこで今回は解離性障害について、それを脳科学との関りから論じたい。
解離性障害、と言われてもピンと来ない方のほうが多いかも知れない。未だに精神医学の中でも市民権を得たとは言えないのがこの解離性障害という疾患である。いや、疾患と書いたが実は解離はむしろ特殊能力なのかもしれない。特に幾つかの人格が主体性を持って振舞うという様子(いわゆる多重人格障害、ないしは解離性同一性障害、以下DID)を目の当たりにし、しかもそのような人々も私たちと同じ人間だということを実感すると、解離とは人の脳にポテンシャルとして常に備わった能力ではないかと思うことが多い。ただそれが実際に発現するかが人によって大きく異なるのである。
ただし解離性障害にはそれ相当のネガティブな面を伴うことも多い。いくつかの自己が複数混在したような状態では、当事者は相当の混乱をきたし、精神的な機能を一時停止せざるを得ないということが生じる。
解離性障害の基本形としての幽体離脱
私が解離性障害について理解していることをお話しするとき、大体は体外離脱の話から始める。私は不幸にしてこれを経験したことがないが、解離性障害という診断を有しない人でも類似の体験を一度でも持った方は多い。
例えば自分がある人から殴られているとする。その瞬間、あるいは何が起きるか予測できた段階で、心がすっと体から離れて後ろや上に浮かび上がる。そしてたたかれている自分を見下ろしているのである。(続く)