2023年7月1日土曜日

連載エッセイ 5の1

 連載エッセイの5回目は、この間まで書いていた「意識」についての短いエッセイを膨らませる形にしようと思う。題して「意識とクオリア」とする。

今回はいよいよ脳科学にとってまさにど真ん中のテーマである「意識」について論じたい。意識とはいかに生まれてくるのか。そこに脳科学はどのように関係しているのか。このテーマについて論じることはある意味では気が楽で、別の意味で非常に荷が重い作業なのだ。気が楽であるというのは、今のところ誰も一つの正解に至っていないからである。だから私自身が勝手な仮説を立てても、よほどのことがない限り誰かに真っ向から否定されることはないであろう。また荷が重いというのは端的に、このテーマが難問中の難問 hard problem (チャーマーズ。後述)と称されてきているからである。

ところでこのテーマで文章を書くにあたり、現在非常に大きく取り沙汰されている生成AIについて最初に触れないわけにはいかない。というのも意識や心について考える際、それが生成AIにおいてもすでに存在し得るのではないかという疑問や関心はこれまで以上に高まっているからである。そして生成AIが示している能力を人間のそれとの比較の上で検討することには意義があると思われる。

心の働きを考えるうえで、「物事を理解する」ということを例にとろう。私はこれまでは、ある事柄を「理解する」ことは、人間の心にしか出来ない芸当だと考えてきた。私が言う「理解する」とは、その事柄について言い換えたり要約したり、それに関するいろいろな角度からの質問に答えることが出来るということである。要するに頭の中でその内容を自在に「転がす」ことが出来ることだ。例えば学生があるテーマについてきちんと理解することなく、ネットで拾える専門的な情報のコピペでレポートを作成したとする。彼はそのテーマについて頭の中で自在に取り廻すことが出来ないから、ちょっと口頭試問をしただけですぐに理解をしていないことがバレてしまうわけだ。

ところが現在生成AIがなしえていることはどうだろうか? あるテーマについて、内容を要約したり、子供に分かるようにかみ砕いて説明したり、それについての試験問題を作成することさえできるのだ。

このような能力は、AIがいわゆるチューリングテストにパスすることを示唆している。この件についてはこの連載の3回めに紹介した。その文章を引用。

「1950年に天才アラン・チューリングは画期的な論文を表し、その中で有名な思考実験を披露した。これがのちに「チューリングテスト」と呼ばれるようになった実験である。ある隔離された部屋にいる誰かに書面で質問をする。それが実は機械(まだコンピューターは存在しなかった)であっても、あたかも人間のような回答をすることで質問者を欺くことが出来たら、そしてやがて機械もそのレベルに至る日が来ると予言したのである。

この文章で私は不正確な書き方をしたかもしれない。「それは人の心を有するとチューリングは考えた。」というくだりだ。しかし正確には彼は人工知能 artificial intelligence を有するという言い方をしている。

  生成AIが心を有しているためには、もう一つの重要な条件を満たさなくてはならない。それは主観性を備えているか、という点だ。そしてこのことはしばしばクオリアを体験しているか、ということに言い換えられる。クオリアについての皆さんよくご存じだろう。たとえばワインを飲んで「おいしい!」と感じたり、景色をみて「美しい」と感じるようなクオリアの体験を有するかということである。そして現時点では、生成AIに知性はあっても主観性は有さない、というのが一つの常識的な見解であろう。(少なくとも私はそう考えている。私は折に触れてChat GPTに「あなたは心や主観性があるのですか?」と尋ねるが、「私には心はありません。」というゼロ回答ばかりである。)