2023年6月30日金曜日

意識についてのエッセイ 推敲 2

 前野隆司の「受動意識仮説」

前野氏は言う。「意識とは、あたかも心というものがリアルに存在するかのように脳が私たちに思わせている、『幻想』または『錯覚』のようなものでしかない」(2007, p.20)。そしてその錯覚には主体性や能動性の感覚も含まれると考える。少し長いが引用しよう。

「機能的な『意識』は、『無意識』下の処理を能動的にバインディングし統合するためのシステムではなく、すでに『無意識』下で統合された結果を体験しエピソード記憶に流し込むための、追従的なシステムに過ぎない。したがって『自由意志』であるかのように体験される意図や意思決定も、実は『意識』がはじめに行うのではない。」

この前野氏の立場は徹底して「物理主義的」であるが、クオリアの存在の生物学的な意義についても強調している。以下に述べるように、それは私たちの生存にとっての意味を持っていると考えられるのだ。

主観性の錯覚の兆すところ 

前野氏の言うように、脳に裏打ちされた私たちの心は、そのかなりの部分が数多くのニューラルネットワークの競合により(彼の言葉を借りるなら「小人たち」により)営まれていると考えられる (Edelman, 1990)。それはニューラルネットワークそれ自体が自律性を有している事を意味し、私たちの脳はいわば自動操舵状態なのである。私たちの意識はそれを上から監視している状態と言える。逆に言えば、脳が全く問題なく安全運転を行っている場合は、意識には何も上らず、記憶は形成されず、したがって何も想起されないということになるだろう。ただし前野氏によれば、監視しているという能動感自体も錯覚であることになる。

 Edelman, G. (1990) Neural Darwinism. Oxford Paperbacks. 

 この様な意味で前野氏は、意識やクオリアや主観性という幻想は、エピソード記憶を作るという合目的的な進化の結果として生まれたとする。要するにクオリアを体験するのは、それをエピソードとして記憶にとどめ、重大な問題が生じたときに随時思い出すためなのだ。脳は意識的な行動をその様な重要案件のために取っておき、それ以外は自動操舵できるようなシステムを有していることが明らかになっている。

意識に関する有名な理論であるフリストンKarl Friston の「脳の大統一理論」や、ドーパミンの「報酬予測誤差」の理論とはそのような文脈で理解できるだろう。

フリストンの提唱する自由エネルギー原理によれば、脳の活動は常に「外環境」を予測して動くということである。もし予測通りにことが進むと、世界は安全で御しやすく、そこで用いる心的エネルギーも最小ということになる。すると意識活動とはこの予測誤差の検知ということに費やされるということになる。意識化されるということは、何か新しいことが起きたということを意味し、それは記憶に残るということになる。

最後に

意識についてのエッセイということでかなり思いつくままに書いた。最近の生成AIの発展に気を取られがちであるが、それは翻って人の心の特殊性について再考する機会になっているかもしれないとも思う。