主観性の錯覚の兆すところ
前野氏の言うように、脳の活動に裏打ちされた私たちの心は、そのかなりの部分が数多くのニューラルネットワークの競合により(前野氏の言葉を借りるなら脳内の「小人たち」により)営まれていると考えられる (Edelman, 1990)。私たちの脳は、乗り物にたとえるならば自動操舵状態なのであるが、意識は自分が主体的に運転をしていると錯覚する。例えば私達が通いなれた通勤路を歩いている時は、何か考え事をしている最中にも足が勝手に動いてくれる。しかしそれでも私達は何かによって歩かされているという感じはしない。あくまでも自分が歩いているという感覚は持っているはずだ。
ただしその日の通勤途中に何も特別なことが起きなければ、私達はその日の通勤時の記憶をそのうち忘れてしまうものだ。何か予想外のことが起きた時にだけ、それが私たち生命体にとって重要な意味を持ち、エピソード記憶となって残る傾向にある。例えばある日通勤途中で人が道端に倒れているのを見つけ、人命救助を行ったという出来事があれば、その時体験した不安や緊張感と共にその時の記憶は鮮明に残るだろう。そしてその記憶は将来同様の出来事に遭遇した際に想起され、その対処に役立てることが出来るだろう。
この様な意味で前野氏は、意識やクオリアや主観性という幻想は、エピソード記憶を作るという合目的的な進化の結果として生まれたとする。要するにクオリアを体験するのは、それが一つの出来事として記憶にとどめられ、将来重大な問題が生じたときに随時想起し、参照するためなのだ。そして前野氏は系統発生的に見てエピソード記憶が芽生えるのはおおむね鳥以上であるという推測をする。
最近話題となっているフリストン Karl Friston の「自由エネルギー原理」はそのような文脈で理解できるだろう。フリストンによれば、脳の活動は常に予測誤差の指標である「変分自由エネルギー」を最小化する方に向かう。すなわち脳は外界からの情報をもとに、そこから期待される外界の在り方を推測し、体験を通して明らかになるその誤差を最小化するように自動的に働いているということを、彼は数理モデルにより示したのだ。この理論に従えば、予測誤差が一定以上の大きさで生じた場合に、人はそれを意識化し、エピソード記憶として定着していくという仕組みを脳が持っているということになる。それが脳の自動操舵のシステムを成立させているのだ。。
Friston, K (2010)The free-energy principle: a unified brain theory?Nat. Rev.Neurosci,. Vol.11,pp.127-138.
Edelman, G. (1990) Neural Darwinism. Oxford Paperbacks.
最後に
今回は意識やクオリア、自由意志というテーマで書いてみた。読み返してみると、私達にとって極めて自然で当たり前の体験としてのクオリアや主体性が実は特殊な体験であり、知性としての存在は必ずしもそれを必要としないのだ、という方向で論じたことになる。これを読者の方は本末転倒と思われるかもしれない。何しろ【心】と心は対等であるかのような議論になってしまったからだ。しかしこれが私自身が至った結論なのである。