2023年7月11日火曜日

連載エッセイ 5の6

 前野隆司の「受動意識仮説」

前野隆司 (2004) 脳はなぜ『心』を作ったのか ―「私」の謎を解く受動意識仮説 筑摩書房.

前野隆司 (2007) 錯覚する脳 ―「おいしい」も「痛い」も幻想だった.  筑摩書房.


 私は以前から前野隆司氏の「受動意識仮説」に親和性を持っていた。もともとロボット工学が専門であった前野氏は、哲学的な議論にいたずらに捉われることなく、科学者としての立場から意識についての歯切れのよい理論を展開する。彼の受動意識仮説はその名の通り、意識を徹底して受動的な存在としてとらえる。脳が勝手に行なっていることに対して、意識は自分が主体的に行っていると錯覚するというのが彼の主張だ。彼はクオリアがある、ない、という議論やいわゆるハードプロブレムをこうして迂回する。。クオリアという概念自体に、その存否で意見が分かれるような性質をもともと持っているのだとするスタンスといえるかもしれない。

  かなり駆け足で前野氏の考えをまとめてみたが、もう少し詳しく彼の主張を追ってみよう。 前野氏は言う。

「意識とは、あたかも心というものがリアルに存在するかのように脳が私たちに思わせている、『幻想』または『錯覚』のようなものでしかない」(2007, p.20)。そしてその錯覚には主体性や能動性の感覚も含まれると考える。少し長いが、もう1か所引用する。

「機能的な『意識』は、『無意識』下の処理を能動的にバインディングし統合するためのシステムではなく、すでに『無意識』下で統合された結果を体験しエピソード記憶に流し込むための、追従的なシステムに過ぎない。したがって『自由意志』であるかのように体験される意図や意思決定も、実は『意識』がはじめに行うのではない。」

この前野氏の立場は徹底して「物理主義的」であるが、その議論の流れでクオリアの存在の生物学的な意義についても強調している所が興味深い。