2023年6月24日土曜日

学派間の対立 7

 最初の学派の選択は恐らく偶発的なものである

 みなさんが大学に入って、何かのサークルをやってみようと考え、何を選ぶかを迷っているという状況を想像していただきたい。皆さんの多くは特にこれをやりたい、というものを決めていらっしゃらないであろう。最初から例えば「中学時代から続けていたバスケットボールを大学に入ってからもやろう!」という場合にはおそらく迷いは生じないはずだ。だからサークルを決める際の関心は、「何をしようか?」よりは「勉強や就職活動に差しさわりがない程度にやってそれを楽しめるか?」という方に向けられるであろう。そして職業選択として治療者(心理療法家、カウンセラー、その他)を選ぶ際もその姿勢は似ていることになろう。あなたは「どの学派を選ぶか?」よりは「それがいかに学びやすい環境にあるか、どの程度身近にその学派の影響を受けた先生がいるか?」にかなり大きく左右されるはずである。それはちょうどテニスのサークルかラクロスサークルかを選ぶとき、「ラクロスのサークルの勧誘をしてきた人の感じがよかった」とか「テニス・サークルの練習日がこの間始めたバイトの曜日と重ならない」といった基準で選ぶことと似ている。この様な選び方を、非常に不躾な呼び方で申し訳ないが、「でも、しか的」と呼ぶことにしよう。もう少し正式な言い方をすると、偶発的、ということが出来るかもしれない。つまり本質的な理由はまだそこにはなかったということである。
 私自身の経験でいえば、最初に精神分析そのものを選んだのは、それが私が新人だった当時一番セミナーを沢山やっていたものであり、大学の先生が盛んに喧伝するものに入ったりするという形で始まった。そのうちその考え方に染まっていき、いつの間にかその考えが自然になって行ったという部分もある。最初に教えられたことが、それこそデフォルト効果で残っていくということが私の場合にもあったかも知れない。
 ともかくも「でもしか」的に選んだ精神分析理論の中で、どれを特に選ぼうかという問題についても、「でもしか的」、ないしは偶発的であった。それでもよかったし、そもそも違いが判らなかった。そのあと私はいくつかの学派の中でどれを主として学ぼうかという選択していくことになるが、そこにはある種の必然が働いていたように思う。