2023年6月25日日曜日

意識についてのエッセイ 8

 「意識」というテーマで文章を書くにあたり、現在非常に大きく取り沙汰されている生成AIについて触れないわけにはいかない。というのも意識や心について考える際、それが生成AIにも存在し得るのではないかという疑問や関心はこれまで以上に高まっているからである。
 昨年グーグルの社員で会ったある人物が、同社のAIがとうとう心を持つに至ったことを報告したことがあった。その後日談は特に聞かないが、たとえAIは心を持たないということが公式見解であるとしても、本当にそうだろうか、と疑うことが起きている。
 私はある事柄を「理解する」という能力は、心にしか持ちえないと考えてきた。思っていた。例えば学生があるテーマについてのレポートを書く場合、それを本当に自分が理解して書いているものなのか、テキストのまる写しかは、そのテーマの本質にかかわる質問をしたり、その要旨を言い表してもらったりすればいい。そのレポートが単なるコピペなら、その学生はそのテーマについて「わかって」いないからそれらの質問に答えられない。そしてそれをできるのは人が心を持っているからだと考えていた。
 ところが生成AIのやっていることはどうだろう? あるテーマについて、質問に答えたり、内容を要約してかみ砕いて説明したり、ということが出来ているのだ。
 この様な生成AIが知性 intelligence を有するとは言えるかもしれない。それはある情報に関する質問に知性的な答えを用意することが出来る。そしていわゆるチューリングテストには合格するかもしれない。ただしその様な生成AIが心を有しているためには、もう一つの重要な条件を満たさなくてはならない。それは主観性を備えているか、すなわちたとえば景色を「美しい」と感じるようなクオリアの体験を有するかということになるだろう。生成AIに知性はあっても主観性は有さない、というのが一つの常識的な見解ではなかろうか?