2023年6月23日金曜日

意識についてのエッセイ 7

  私にとっては大切な問題はクオリアが上に述べた意味で神経細胞の活動に「還元」できるかであろうと思う。そしてそれはかなりの確からしさで「是」である。それは神経細胞のネットワークの発火のパターンのほんの一部の違いがクオリアに大きな変化を及ぼすことがほぼ間違いないからである。それは例えば物を見ている時にそれが反射している光の波長が、例えば570 nm から590 nm に代わるだけで黄色から橙に色調が変わって見える、という様な例からわかることである。

クオリアが物理的な世界から独立して存在するかという議論は私にはナンセンスに思える。590 nm の波長の光を橙色と感じてしまうという私たちの心の性質は確かにあるだろうが、ではその様な光の入力とは無関係に橙色という体験が成立するかと言うと大変疑わしいだろう。

ただしこの問題を突き詰めていくと、おそらく魂は存在するかという問題にも行きつくことになる。私は霊魂があればどんなにいいだろうと真剣に思うが、まだその存在を信じることが出来るような体験を持っていないのだ。

 その意味で私は以前から前野隆司氏の受動意識仮説に親和性を持っていた。脳はなぜ『心』を作ったのか―「私」の謎を解く受動意識仮説 筑摩書房、2004

彼は意識やクオリアは錯覚として、しかも生存にとって必要な錯覚として発達したものであると捉える。彼の受動意識仮説はその名の通り、徹底して受動的であり、いわば脳が勝手にやって入ることを自分が主体的に行っているという錯覚が意識であるという。この立場はクオリアがある、ない、という議論とは違い、それは錯覚であると言い切ることで、ハードプロブレムを迂回する。なぜクオリアが存在するかという議論は、それを難問とするならば、なぜそもそも宇宙が存在するのか、も難問ということになるが、それを私たちはクオリアほどは問題にしない。クオリア(という概念自体はもちろん存在する)は、その存否で意見が分かれるような性質をもともと持っているということだろうか。