2023年6月19日月曜日

意識についてのエッセイ 3

 フリストンの説をよく知りもしないで批判は禁物かもしれないが、ここで私の考えをまとめるうえでも一応ひとこと言っておく。フリストンの自由エネルギー論は、脳がいかに情報処理を巧みに行っているかという説明になっている。ただそれは心がいかに生まれるかというテーマには沿っていないような気がする。それはいかに脳が無意識的に様々な処理を行っているのか、という印象を受けてしまう。逆説的な言い方になるが自由エネルギー論に十分に従いきれずに予測誤差が発生するところに意識が生まれるのだ。
 私がむしろピンとくるのは、情報統合理論と言われるもので、イタリアのジュリオ・トノーニという学者がそれを提唱している。このブログにも何度か登場しているが、少し繰り返す。トノーニは脳の中で情報をより多く蓄えることのできるネットワークが意識を生むと考えた。これはそもそもどういう意味だろうか。

 前回(第4回)で書いたネットワーク=結晶の議論を思い出してほしい。例えばリンゴの脳内のネットワークは一つの結晶を形成するとした。しかしその細部は揺らぎが見られ、一部があまり光らなかったり、どれだけ光るかの範囲がその時々で違うという話をした。つまり「リンゴ」とちらっと聞いたときに発火するネットワークは、リンゴについてゆっくり時間をかけて思い浮かべる際のネットワークよりコンパクトで、ないしは骨組みだけというところがある。そしてそのネットワークにはその内部に様々な組み合わせが存在し、青いリンゴのイメージと真っ赤なリンゴのイメージでは少し光る部分が異なる、などの話をした。例えば私が「ドリアン」という果物を思い浮かべようとしても、極めて貧弱なネットワークしかない。激烈に臭いということ、そして何やらトゲトゲのついた実であるということぐらいだ。ドリアンについて語れと言われてもとても饒舌に語れない。つまり私の脳にあるドリアンのネットワークは極めて情報量が乏しいのだ。それに比べてリンゴなら、そのネットワークはいくらでも語ることが出来るほどにたくさんの情報を持っている。それは要するにそのネットワークのいろいろな部分を自在に光らせることが出来るという意味である。
 ということはそもそも意識とはそのようなネットワークを豊富に含んだ巨大なネットワーク全体ということになるだろう。それがトノーニの説の非常に大雑把な要旨である。