2023年6月18日日曜日

学派間の対立 6

 さてもう一つの学派の多様性は、個人の内部におけるそれである。ある一人の治療者が、クライン派とコフート派の考えを共存させているというような状態である。その場合は、その治療者はクライン派とコフート派の理論と実践を学び、それぞれの学派にのっとった治療の有効性を自ら実感している。この場合は恐らく両者の治療法を個別に実践するというよりは、双方を治療的な文脈に沿って適宜取り入れるということになろう。その場合は学派の多様性は患者にとっての貢献につながると考えていいであろう。
 ただしこの第二の意味での学派の多様性はどの程度達成されているだろうか。あるいはそもそもそれは可能なのであろうか?その問題について論じてみたい。
 最近一つ感じる事があった。私が学派の間の対立について考えていることについて、若い治療者は私が考えている以上に、あるいはそれとは異なる形で困っているということである。それはAにしようか、Bにしようか迷うという感じであり、そこに強い動因がないままにどちらかを選ぶということが起きている可能性がある。
 私は講義や講演などでしばしば学派の多様性について論じ、分析理論にいたずらに捉われるべきではないという話をするが、一部の視聴者から非常に当惑した反応を受けるのである。一つは「では先生は何学派なのですか?」であり、もう一つは「私はどのように学派を選んだらいいのでしょうか?」というものである。これは精神分析を学ぶ多くの人々にとってごく自然で、おそらくはかなり深刻な問題でもあり得る。そしてそれに対して私が一番言いたいことを単刀直入に言うことは、更に質問者を混乱させることになる。それは特に二番目の質問に対して次のように答えた時である。
 「素晴らしい質問です。そしてそれはあなた自身が、ご自分で決めるしかありません。なぜなら誰も正解を教えてくれないからです。」
 そう、この答えは最も現実的であり、また最も不親切な答えなのだ。そこで私はこの答えの意味について少しかみ砕いてお話したいと思う。
 ここで二つの学派を取り上げよう。何でもいいのだが、分かりやすくクライン派とかコフート派ということにしよう。そして学派を選ぶ段階でよく受ける印象が、どちらの学派を選ぶかを、あたかも大学に入学してキャンパスを訪れた時に、サークルの勧誘を受けて、ラクロス・サークルとテニス・サークルの間で迷うような感覚であるということだ。あるいは囲碁部か、将棋部か、でもいい。これまで自分がそれ等のうちどれかに特化して取り組んだということはなく、目の前にたまたま示された選択肢の中からどちらかをサイコロを転がして選ぶという状況に似ている。