乾敏郎・阪口豊(2020)脳の大統一理論 自由エネルギー原理とは何か。岩波科学ライブラリー 299 を今何度も読んでいる。
自由エネルギー原理とは、イギリスのKarl Friston が提唱した理論であるが、その原則を一言で言うならば、人の心は常に変分自由エネルギーというコスト関数を最小限にするという性質を持つという。そしてその背景にあるのがいわゆるベイズ理論だ。それは 「観測データに基づき事前確率(prior belief)を事後確率(posterior belief)に更新する過程のことであり、事前確率・事後確率とはそれぞれ観測の前・後におけるエージェントが持つ外部状態に関する信念を意味している」(「」内はネットの文章を拝借した)などというのだが、わかりにくい。結局脳は世界とかかわる際に、慣れるにしたがって「たかを括る」ようになるということだ。世界はどうせこんな感じだ。空からチラチラ白いものが舞って降りてきても驚かず、それにあたって体が汚染されたり、傷ついたりすることを恐れることなく、無意識的に「雪だから平気だ」とその中を歩いていこうとする。そしてそれが予測と異なる場合にはそれに対して恐れなどの感情を持って反応し、それが意識野に上ってくる。(どうも焦げ臭いにおいが漂ってきたり、雪が降るにしてはさほど寒くないと感じたりして不思議に思ってよくよく見ると、それは雪片ではなく、近くで起きていた家事の影響で舞い降りてきた灰であることがわかり、びっくりする、など)。
しかしこの件について書いていて一つ疑問だ。彼の説は、人間の心がいかにロボット的かということについて論じているようだが、実はこの話は乾敏郎・阪口豊(2020)の上記の著書を読んでも明らかではない。同著の末尾部分に「意識とは何か」という項目があるが、「フリストンは、時間的に幅のある(深い)生成モデルを持って、未来の状態を考え、行為系列を選択する機能を持つことによって意識が芽生えるのではないかと考えているが、その詳細は研究途上にある。」(p.120)「フリストンらは、感情や意識を議論する上で極めて重要なのが、内受容感覚に対する精度及びその変化であると考えている。」「精度が向上することが、意識に上るきっかけと考える。」(p. 122)
ところが精度が上昇すると逆に意識に上らなくなるのではないかというのが私の考えである。最近ふと思うのだが、意識がある、ということは回想を可能にするということと同一であるという気がしてくる。フリストンの言うように私たちの精神活動がここまで自動化しているならば、意識活動が行うのは、能動的な行動や回想くらいしかなくなってくるのではないかと思うのだ。