今回のテーマは様々な文脈における多様性ということであるが、多様性の問題は精神分析理論の世界にも存在する。それを論じるのが私の役割であるが、そこで最大の問題は、その多様性が患者に対する利益を促進するのか、それともそれを阻害するのかということである。そしてそれは両方の影響を及ぼす可能性があるというのが私の見解である。ここで学派の多様性を二つの意味で考えたい。
この意味での学派の多様性は、一見平和なように見えて、臨床的な意義を考えるときには問題があるだろう。それは個別の患者はどの学派を選ぶべきかについての見解を持ちえないだろうからだ。例えばコフート派とクライン派を例にとると、コフート派の治療者はコフート派の治療を、クライン派の治療者はクライン派の治療を薦めることになるだろう。そして多くの場合その理由を聞かれた時には、「私はこの学派でのトレーニングを受けたからです」、ということ以外に言いようがないことが多いだろう。そしてそれはある程度やむを得ないことかもしれない。それぞれの学派を学んで年余にわたるトレーニングを受けるうちに、ほかの学派に費やす時間もエネルギーも奪われてしまうからだ。
さてもう一つの学派の多様性は、個人の内部におけるそれである。ある一人の治療者が、クライン派とコフート派の考えを共存させている。