ここで物理学に還元できないものとして心をとらえるというところがミソだ。クオリアが随伴現象だとしたら、その性質は脳の神経細胞の興奮にその細部まで対応することになる。それが物理学に還元できるということだろう。しかしそこから独立しているのがクオリアだとすれば、たとえばサーモスタットという二枚の性質の違う金属片の張り合わせという極めて単純なつくりの仕掛けにも、その単純さには必ずしも対応しない心が存在し得るということになり、それは要するに物体とは独立した心の存在、というデカルトの二元論になる、という理屈だ。これはこれで説明が付く。
Charmers, D.
(1996)The Conscious Mind: In Search of a Fundamental
theory. Oxford University Press.林一訳『意識する心――脳と精神の根本理論を求めて』白揚社、2001年
ちなみにこのチャーマーズの理論に対しては、ダニエル・デネットや、フランシス・クリック、ロジャー・ペンローズらの反論がある。その代表としてダニエル・デネットの立場を取り上げよう。彼は「クオリアは存在しない」と主張した。
Daniel Dennett (1991)Consciousness Explained 『解明される意識』青土社、1998年。
彼のいういわゆる消去主義Eliminativism はかなり極端で、要するに意識とかクオリアは錯覚であるという立場だ。そしてそのような強い錯覚を生み出すだけの脳内の神経基盤があるはずだと考える。これは例えばクオリアの存在が心の最大の謎だと唱える立場(脳科学者の茂木氏など)と顕著に異なることになる。そして数多くの学者がこの点をめぐって論争をしていること自体が、答えはそのどちらでもあって、どちらでもないという形をとっているものであることを示唆しているとしか考えられない。
クオリアが存在するか否かは、例えば私たちのみる夢が存在するか否か、あるいはもっと端的に心は存在するか否か、という議論と似ている。それは「存在」の定義によるのだ。例えば独楽は回転する。しかし「回転」は独楽のような物理的な存在の仕方はしない。それは機能だからだ。脳と心も同じような関係にある。心は脳のように物理的に存在はしない。しかし脳の機能として生まれてくるものとしては存在するのだ。