2.ニューラルネットワークの結晶がひとつの体験を構成する
この原則もある意味では非常にシンプルな事実かもしれない。常に揺らいでいる神経細胞は、でも時々はっきりとした振る舞いをする。それは大きな信号を発してそれを周囲の神経細胞に伝えるのである。そしてその結果としてそれを受け取った神経細胞がグループとして光ることがある。イメージとしては夜空の星のうちある星座だけがリズミカルに光っている感じだろう。私がこのギフアニメで苦心して示したのはそのような状態である。
では具体的に体験とは何か。例えばこれが「リンゴ」についての体験を表しているとする。リンゴは音としてのそれだけでなく、味の記憶、視覚的イメージ、手に持った感触など、様々な体験を併せ持つだろう。だからこのリンゴを代表するネットワークは聴覚野視覚野にも体性感覚野にも枝を伸ばしていることがある。それにこの「リンゴ」のネットワークは、常にそのまとまりの全体が光っているとは限らない。リンゴの味を思い浮かべているときは、その視覚野にかかっている部分はあまり光ってはいないかも知れない。ただしそれはリンゴを視覚的に思い浮かべようとすればすぐに光が増す。結局この「リンゴ」を表すネットワークはそれ全体がある程度「温まって」いて、いつでもその範囲を広げることが出来るようなものと考えられるだろう。
ここで私がなぜネットワークの「結晶」と呼ぶかを説明しよう。このパターンは実は神経細胞間が強い結びつきを持っていて、その全体が一緒になって(同期して)興奮するようになっている。そして私たちが「リンゴ」の確固たるイメージを持つほど、そこに参加する神経細胞は厳選管理されて維持されるのである。ただしその周辺部に関してはその限りではない。例えば色合いについてはそれを表す神経細胞はその時々で細部が異なる可能性がある。何となく青いリンゴをイメージしている時の結晶は、真っ赤なリンゴをイメージしている時のそれとは微妙に異なっているはずだ。
このネットワークの結晶が複数存在している場合の例を考えよう。「霧」のネットワークと「霰」のそれを思い浮かべていただきたい。ご存じの通りキリ、とアラレと読む。ある程度年齢が言った日本人なら、両者は明らかに違うし、読み間違いをすることもないだろう。ただ漢字をあまり知らない外国人や小学生なら両者があいまいになるし、パッと見た目は区別がつかないかもしれない。霧も霰も、それを区別できる私たちの脳では、異なるグループの神経細胞が興奮することになる。おそらくかなりたくさんの細胞が共通して興奮するとしても、霧の場合には興奮せず、霰の場合には興奮する神経細胞がおそらくあり、その逆もある。いわば神経細胞のなす結晶構造が違うわけだ。この結晶は独特の味わいといってもいい体験となる。霧という文字を見て遠くがかすんだぼんやりとした視界をありありと思い浮かべる。それは空からパラパラと氷の塊が降ってくる霰のイメージとは全く異なる。
あるイメージ、記憶、思考などはことごとくニューラルネットワーク上の結晶であるという考えは、突き詰めて言えば、私たちの一つの体験が一つの結晶である、ということだ。私たちがある体験を、それ以外の体験と区別した独自のものとして体験する際、その結晶は唯一無二のものである。
その意味で脳科学者ジェラルド・エデルマン(2000,
p.164)は、体験をNの神経細胞が作るN次元上の一点、と表現した。Nとは実は途方もないものである。1000億、などのオーダーだ。そしてそれだけの次元を持った空間を考えた場合、結晶は一つの点にあらわされる。
Edelman,G., Tononi,J. (2000) A Universe
of Consciousness. How Matter Becomes Imagination. Basic Books.