2023年4月3日月曜日

精神分析的精神療法の現状と展望 4

6.まとめ ― 今後の展望も含めて

 最後にPATに関するこれまでの議論をまとめ、また今後の展望について論じたい。当初はPATは週一度のカウチを用いない分析的な精神療法という意味では、精神分析の簡易版、汎用版というややネガティブなニュアンスを帯びていたと言えるであろう。現在でも実際に「精神分析に比べて強度の低い less intense もの」(American Psychoanalytic Association)という記載のされ方も見られるが、他方では精神分析を含む精神療法全体を指すものとして包括的に捉える傾向が海外に見られることも示した。その要因はいくつか考えらえるが、一つには精神分析の特権的位置が崩されて相対化され、精神療法の一つの極に位置するありかたとして理解されるようになったことが関係している。更には精神分析という概念そのものが多様化し、様々な理論的な背景が精神分析という大きなカテゴリーに包括されるようになってきたという事情がある。しかしとりわけ大きいのは、精神療法において治療者と患者の関係性がより重視されるようになってきたという事情であろう。そこでは治療者はある特定の理論に基づいた「強度の高い」治療構造を最善のものとして提供するのではなく、両者の関係性の中で、そして患者の側のニーズや特異性を考慮した無理のない治療方針を一緒に構築していくという姿勢がより大きな賛同を得られるようになってきているからであると言えよう。

表現的-支持的療法のスペクトラムという考え方はPATが取り得る様々な治療形態を分類し整理するための一つの枠組みとして有効なものと考えられる。ただし精神療法においては様々な要素がスペクトラムとして存在し、それぞれにおいて特定の患者との治療に最適なものを選択していくという考え方がより現代的と言えよう。そのスペクトラムとしては、表現的-支持的以外にも治療の頻度や継続期間のそれも存在することになる。そしてそのスペクトラム上のどこを選択するかについては現実的な要素が関係していることも多い(Gabbard 103)。理想的には週に3回でも、時間的、ないしは経済的に週に1回しか来室できない患者に対してもその構造でベストな分析的治療を提供するよう努めなくてはならない。

 ただし治療関係や患者の病理により種々のスペクトラム上に構造が決まるという上記の視点だけでなく、構造が治療の在り方を規定するということは十分あり得るだろう。わが国で論じられていたような、週4回と一度では起きることが異なるという議論はその意味では根拠ある議論であり、それは上記の世界の傾向とは異なる有意義な視点ではないだろうか。

以上のことから近未来のPAPについては次のように考えることが出来る。

精神分析の治癒機序が多元的である(Gabbard)という認識が進むにつれ、それがどのような設定や治療構造で行なわれるべきかについての議論は一元化しにくくなる可能性がある。そして患者治療者関係の重視や患者にとっての安全な環境を提示するというニーズはこれまでにも増し、それに応じて治療設定がカスタマイズされていく傾向はこれまで以上に増すであろう。

その意味で精神分析が特権的な位置にあるという見方から、精神分析をその一つの在り方として広く包んだ治療形態としてのPATが考えられるべきであろう。そこでは精神分析はPAPの一つとして、つまりスペクトラムの一端に存在することになる。そしてその治療構造も週に何回か、あるいはカウチを用いるかはケースバイケースということになろう。ただし経済的な負担、時間的な負担を考えた場合には、その頻度は週12回というところに落ち着く可能性があり、それは精神療法として呼ばれるものとなるであろう。そしてそこで用いられる手段はスペクトラム的ということになる。

この様にして精神分析の多様化、患者治療者関係の要素の更なる重視により、精神分析を含んだグローバルなPAPという考え方はさらに展開していくものと考えられる。

一部のHPに見られるPATが精神分析を含みこむような記述はそれを既に反映している可能性がある。

この論考を書くにあたり、最後に筆者の見解をもう一つ補足したい。Gabbard の言う、高頻度の治療ははより表出的であり、低頻度は支持的であるという分類は精神分析におけるこれまでの様々な議論を総括した最も受け入れやすいものと言えよう。ただしこれには例外もあり得ることを付言しておきたい。実際には高頻度のセッションでもそれがある種の安全な環境としての役割を果たし、そこでの転移は起きるとしても緩徐な形で生じる可能性もあろう。またより表出的でストレスに満ちたセッションがそれだけ間隔をあけることで継続するという場合もあろう。その意味では表出的—支持的スペクトラムもさらに相対化すべきではないかというのが、近未来のPATの取りうる姿についての私の見解である。