2023年3月20日月曜日

連載エッセイ 1

 前略

ソフトウェアとしての脳科学?

 このように私の興味は最初は精神分析やファントム理論に向けられていたが、それから30年が経つうちに、いつの間にか脳科学にも及ぶようになった。読者は私自身の中に何か大きな変化が生じたはずだと思われる方も多いだろうが、私にとっては両方にあまり本質的な差があるようには思えないのだ。つまり精神分析への関心と脳科学への関心は矛盾せず、むしろ自然とつながっている感覚を持つのである。それはどうしてであろうか?この連載の第一回目を書くにあたり、それを読者に説明しなくてはならない。

そこであれこれと考えていくうちに、一つのアイデアが湧いた。それは精神分析と脳科学との関係はコンピューターのソフトウェアとハードウェアとの関係に似ているのではないかということである。つまり脳というコンピューターのハードウェアに心というソフトウェアがインストールされているというイメージである。パソコンやITに非常になじみ深くなっているはずの読者なら、容易に納得していただけるのではないか。そして私の関心は過去30年の間に、精神分析というソフトウェアから脳科学というハードウェアに移ってきたわけである。

私が精神科医になった当初は心を一種のソフトウェアのようなものだと考え、そのプログラムを走らせるのが脳であると考えていた。と言っても1980年代前半は汎用性のあるパソコンそのものが存在しなかった。だから後にハードとかソフトとかの概念を用いるようになってから振り返ると、その頃の私の考えをそれ等の比喩で考えることが出来ると思いついたのである。そしてその意味での心のソフトウェアとしては、精神分析やファントム理論が最も出来栄えがいいものとみなしていたのである。ただし心は非常に巧妙かつ複雑に作られており、もちろんそのソフトの作者は「神のみぞ知る」存在としか言いようがない。しかしそのあり方を解明することが心を理解することに繋がり、そのソフトウェアの本質にかなり接近しているものとして、精神分析を含む精神病理理論に興味を持ったのだ。

この様に考えると私が脳科学に興味を持たなかったのも無理もないと言える。それは心というソフトを動かすハードとしてのパソコンのCPURAMやハードディスクや、それらをつなぐ細かな配線には興味をそそられないのと同じである。

 ちなみに心を追求したフロイトの場合は、ハードウェアとしての脳への関心が先行したことは興味深い。彼は脳の神経細胞の在り方から心の理論を打ち立てようとしたが、結局失敗している。それが1895年に書かれた「科学的心理学草稿」であった。その後フロイトはそれとは全く異なる心の理論を描きだした。それが無意識や意識、自我や超自我といった概念を用いたものだった。フロイトの局所論モデルも構造論モデルも、いわばソフトウェアの仕組みを説明するためのものだったということが出来るだろう。

ところが私はこの30年のうちに、ある一つのことに気が付いたのだ。それは端的に言えば心のソフトウェアは恐らく存在しないであろうということだ。そこには脳というハードウェアしかなく、ソフトウェアなどない。あるいはこう言い換えてもいいかもしれない。脳においてはソフトウェアとハードウェアとは別れていない。おそらく両者は同一なのだ。そして心を知る一つの具体的な手法は脳の活動を知ることなのだ。


以下略