私は心身相関の問題は古くて新しい問題だという風に考えています。というのもいわゆるMUSの問題は時代を超えて常に私たちが直面するからです。MUSとは(medically unexplained symptoms 医学的に説明できない症状)ですが、要するにある身体的な訴えにそれなりの根拠が見いだせない状態です。このMUSは、その訴えを聞く側に、「その訴えはまわりの注意をひくため、同情を誘うためではないか」という疑念を抱かせる傾向があります。そしてこのMUSが私たちに抱かせるこのような疑いは、おそらく時代を超えて普遍的なものと言えるでしょう。それはなぜでしょうか?
ある人が胸の痛みを訴えるとします。私達はその様な訴えを聞いて、最初は動揺します。その人を介抱して、病状や訴えを和らげようとするでしょう。というのは私たちは人の情動、特に痛みとか苦痛に対してそれに同一化して一緒に苦しみを味わうという傾向がどこかにあるからです。だから自然とそういう動きを選択するわけです。ちなみにその原型はひょっとしたら赤ん坊の訴えに対する親の反応にあるのかもしれません。赤ちゃんが泣いたら普通は母親はその訴えの意味をごく自然に理解しようとするでしょう。例えばお腹が空いているのか、眠いのか、ということを分かってあげようとするわけです。
さてそのような体の訴えにはいくつかのパターンがあり、それに従って対処法が見つかるはずです。例えば胸の苦しみを訴える人が高齢の男性で、かつて同様の訴えで青ざめて脂汗をかき、亡くなっていった男性を思い起こさせ、ああこれはあの心臓発作が起きているのかもしれない、しっかり介抱して安静にさせなくては、となるわけです。あるいはもっと分かりやすく、その人が胸を殴られたような痣があった場合は、あるいはろっ骨が折れている所見が見られるならば、もちろんその苦しみは「本物」と認定されるでしょう。また赤ちゃんの場合はちょうど授乳の頃であり、お腹が空いていることが予想されればオッパイをあげ、赤ん坊はもちろん泣き止み、やがて満足して寝てしまうわけです。
ところがそれらの典型的で、対処法がある程度分かっている訴え以外の体の訴えに対して、私はどこかで「これは本当の訴えか」「大袈裟に言っているだけではないのか?」と疑う傾向もあります。そしてそれはおそらく私たち自身の心や体のあり方に関係しているのでしょう。つまり私たち自身が何となく、(気のせいで?)体の訴えを起こすということを自分自身の体験として持っているはずだからです。
例えばある食べ物を口にした後、なんとなくいつもと違う味で、ひょっとしたら腐っていて食中毒のような症状を起こしかけているのではないかと心配になります。すると吐き気や腹痛を味わっているような気分になります。それは単なる気のせいではないかと思えるような、かすかなものですが、心配になるにつれて増幅していく気がします。そしてそれが痛みそのものなのか、不安によりその強さが増強されたように感じるのかがわからなくなります。ちなみにこれはいわゆるプラセボ,ノセボ効果と同類のものです。その様な体験をある程度身を持って体験しているからこそ、私達は典型的な形で起きるのではなく、「本物」に見えない訴えについては、それを「まわりの注意をひくため、同情を誘うためではないか」という疑いを持ってみる傾向にあります。
さてMUSの話に戻れば、最近医学が進歩することにより、これまで「本物」ではないかと思われる傾向にあった身体的な訴えに関して、次々と実際の原因が解明されるようになってきています。そしてMUSに含まれる病気はどんどん縮小されていくという運命にあります。