恥について急に書くことになった。例の大人の事情である。分量は少なくないが、色々論じたテーマなのであまり時間を取ることなくかけるのではないだろうか。一応テーマは「羞恥から恥辱へ 恥が味方から敵に変わるプロセス」ということにしよう。
これも身近な体験から出発するのであるが、対人関係とはきわめて複雑で錯綜した現象である。いまだに不思議なのであるが、人と会うということはどうしてこんなに億劫な事だろうか。
ある当事者の漫画(「人生が一度めちゃめちゃになった アルコール依存症のOLの話」)を読んだが、宅配の人が来る前になるとドキドキして居ても立っても居られなくなるというシーンが出てくる。そして結局は宅配の応対をするためにもアルコールに頼ってしまう。その様な方の場合は、それこそコンビニで買い物をすることさえ苦痛だろう。私がはるか昔に書いた「私の闘仏記」は、パリ留学時代に郵便局の窓口で言葉が通じつに、受付の人にため息をつかれると、その日一日が暗くなるということを書いたのを思い出す。当時はフランス人の患者に医師として出会うことがものすごい緊張を感じさせるものだった。
さすがに宅配のお兄さんに緊張することは皆無だが、今でもデパートに行くときなど、カミさんの後ろをついてしか店に入っていけない。(彼女はズンズン入っていくので非常に頼もしい。)何かを勧められて、断るのがつらい、などと考えてしまうのだ。そう言えばこのブログのタイトルは「気弱な精神科医」なのだった。
ただし私は開き直っているから、対人場面は緊張しない方がおかしいとさえ思っている。サルトルは「地獄は他者だL'enfer, c'est les autres」と言ったが、すごくよく分かる。深刻な斜視であった彼なら他者の怪訝な視線をビンビンに経験したであろう。対人体験はこちらが見る―こちらの視線を浴びた他者を見る—こちらの視線を浴びた他者を見ている私の視線を浴びた他者を見る・・・・・という風に鏡面反射現象となる。そしてそれぞれの段階に「そういう自分を相手がどう思っているんだろう?」という思考が入り混じる。酒でも飲んで脳を自動操舵にでもしない限り、とてもシラフでは体験しつくせない作業なのだ。でもだからこそ面白い。