2023年3月11日土曜日

私の共感論 推敲 3

 共感に関する議論の面白いところ(別の意味ではつまらないところ?)は、共感が治療において極めて重要な位置を占めるということを多くの人はすでに直感的に知っているということだ。「あなたは~思っていたんだね」とか「~と感じていたんだね」と人から声をかけられることは、もしそれが自分の体験に合致していると感じられるのであれば、極めてポジティブな体験となりうるのが普通だ。勿論「そうですよ。それがどうしましたか?」という反応もあり得るだろう。あるいは「そんなこと改めて言われる必要はありませんよ」「あなたにそんなこと言われたくありませんね」も可能性としてはある。私たちには、人に自分の心に土足で踏み込んでもらいたくはないということもあるだろう。でも通常はそれはあまりネガティブな体験にはならないものなのである。

私たちにとってつらい体験がさらにつらくなるのは、その体験で味わったつらさを人から理解されないことによる孤独を味わう時である。だから心の問題を抱えている人が治療者にそれをわかってもらったと感じることは、そもそもその治療が成立するかどうかにとって極めて重要な問題であることは論を待たない。

「共感してもらえること」に比べると、他に論じられる治療機序、例えば「自分の問題についての洞察を得ること」とか「自分の無意識を明らかにすること」「無条件で愛されること」などはその価値を直感的に理解することは、その価値は認めるとしても、決して容易ではないだろう。無意識が明らかになることは、決して心地よいことばかりではない。そこにはある種の恐れや危険が伴うことは容易に想像がつく。また「無条件に愛されること」はそもそもそれがどれほど実現が可能なのかという点も含めて即座に肯定することはできないのではないか。「あらゆる疾病を逃れること」はそれがたとえ望ましくても実現不可能であるのと同じだ。

だから精神分析療法、あるいはそれ以外の治療手段がそれに特異的な治療技法を用いることで心の問題を解決できるという可能性を除けば、治療者が共感的であることの重要性は論を待たないことと言える。しかしここで悩ましいのは、精神分析的な手法はしばしば共感を与えるということと対極的なあり方になりかねないという点である。さもなければ「表出的か支持的か?」問いが立てられるはずはないからだ。表出的な手法と支持的な手法が独立変数的であれば、「表出的でかつ支持的であれ」で済むわけだ。

表出的であることと支持的であることがしばしば綱引きをするということに関しては、次のような例を考えればいいだろう。患者に表出をうながすという目的で治療者が受け身性を発揮するとする。その様な沈黙が支配する空間で患者が「共感されていない」という体験を持つ可能性は大きいだろう。そしてこのことはしばしば分析的な治療において昔も今も生じているのである。しかし分析的な手法を重んじる立場の治療者はそうやすやすと「共感も大事ですよ」とは言えなくなる。なぜなら先ほど紹介した金言が頭に鳴り響くからだ。

be as expressive as possible and be as supportive as much as you need できうる限り表出的であれ、そして必要な分だけ支持的であれ。」 こうして支持的な手法は常に出し惜しみされる運命にある。でも支持的な介入を必要としていない人などいるだろうか?