2023年3月1日水曜日

私の共感論 9

何を伝えるか

ここからの話は、共感的である治療者がどの様にそれを患者に伝えるか、という問題である。しかしこれはこれまでの話とは全く別の問題であるということをまず最初に言っておこう。ある患者さんが苦しみAを体験しているとする。治療者がCEEを駆使してそれに可能な限り到達したとする。そして「あなたはAを感じているんですね」となるべく正確に伝えたとする。それでいいのだろうか? おそらくその限りではない。
 患者さんの示す一つの反応としては「ああ、先生はわかってくれているんですね。安心しました。」があるだろう。しかしそうでない場合もいくらでもあることを私たちは知っている。Aがその通りであればあるほど患者はそれを不快に思い、「とんでもありません。何を分かったようなことを言うんですか!」となることもある。あるいは「私のAをわかってくれるのはいいけれど、頼むからそうやって言葉に出してはっきり言わないで下さいよ!」かも知れない。
 あるいはAを言葉に表現されたことで、それがある種の客観性や他者性を帯びてしまい、それがトラウマの様に鳴り響いてしまうかもしれないのだ。すると特にAについて言及せず、ただ「大変だったですね」という返し方が患者さんにとって一番有難かったりもするのだ。その他にも「Aは誰もが体験することですよ」「Aに負けないでください」「わかりますよ、私もAを体験したことがあります」などの「余計な」部分を伴った言葉がけはいろいろ可能性としては考えられるが、それぞれがあまりに個別の反応を生む可能性がある。
 では患者さんは何を望んで、どのように「分かって」欲しいのだろうか。再び患者さんはAを体験したとしよう。そこは同じだ。しかしその患者さんは治療者が「あなたはBを感じたのですね」という言葉で本当に「分かってもらえた」と感じるとしよう。ここでABなのか?必ずしもそうではない。先ほども述べたように、ABであることはいくらでもあるのだ。もしそうである場合、治療者のかける言葉は?
 恐らく「あなたはAを感じたのですね。」ではないのである。そしてもし治療者が「あなたはBを感じたのですね。」を待っている患者さんの心を察した場合は、そちらの方の言葉におそらくは治療的な意味があるのだ。それはなぜだろうか?患者さんの心の真の在り方(A)を伝えるのが治療者の役割ではないのか?治療者が感じ取ったBはどうなるのだろうか?

ある架空の例である。ある患者さんが父親から虐待された体験を語ったとする。

以下略