2023年3月15日水曜日

地獄は他者か 5

 さてここで問題になっている羞恥から恥辱への変化について、実は私はこれまでちゃんと考察してこなかったことに気が付いた。1998年に書いた「恥と自己愛の精神分析理論」(岩崎学術出版社)で、私は両方の概念の違いについてしか言及していない。ではこの小論はそのチャンスではないか。ただ同書のp.199ではこんなことを書いている。「見せる/見てもらう」と「隠そうとする/見られてしまう」という体験を私たちは常に持っている。そうか、こんなことを言っていたのだ。
 たまたまネットで見た記事に面白いことが書いてある。Livedoor News202336日) によれば、全国の818歳の女子300人に調査をしたところ、約9割の人が「人前でマスクを外すことに抵抗がある」と回答し、その理由として①「恥ずかしい」(56.7%)、②「自分の顔に自信がない」(56.0%)、③{友達にどう思われるか不安}(44.0%)だという。この問題が起きるだろうとは思っていたが、実施にそうなっているのだ。非日常が3年間続くと日常になってしまう。このうち①は羞恥、②は恥辱に属するが、複数回答を許可すると結局両方にマルが付けられるというのが現状であろう。そう、両者は共存する傾向にあるのだ。

それはともかく。「恥と自己愛」で私はこんな説明をしている。
乳幼児に関しては、母親に見てもらうことがすなわち生きることである。「私が見られているから、私は存在する」(ウィニコット(1971)「遊びと現実」)。ところが子供はそのうち秘密を持つようになり、様々な心の内容を抑圧するようになる。「~を表現したら~(という良くないこと)が起きてしまう」という因果律的な思考をデフォルトで行なうようになると、自分の~をそのまま見せてしまったら~というよからぬことが起きてしまう、という思考が常に生じることで「隠そうとする/見られてしまう」の割合が増えてくるのだ。

この様に考えると後者が恥辱体験の萌芽であるとしても、その基本は「見られたくない自分」が増大していくプロセスと同じだと言える。仮に「恥ずべき自分」ではなく「罪深い自分」を考えよう。罪を犯した自分のモンタージュ写真が世間に出回っていて、顔を見られると警察に通報されてしまう可能性がある。その犯人は顔を隠し、見られてしまうことにおびえるだろう。これもふるまいとしては対人恐怖と同じようなものだ。隠したい自分は「恥多き自分」ばかりではないのだ。

 

ここで恥は人にとってなぜ重要なのか、そしてその意味では恥は防衛となっているのか、という問題について考えよう。話しの取っ掛かりは衣服だ。動物は裸ん坊のままだ。まあ毛皮で多少はカバーされるのであろうが、どうしてそれに耐えられるのだろう?羞恥心がないからか。あるいは対自存在たりえないからか。(即自存在は自分が自分であることを意識しない。対自存在とは自分を客観視できる存在である。)動物はいわばみられる自分の身体を意識しなくていいわけで、こちらからは相手が見えるが、向こうからは見えない、一種の透明人間のような気持で生活を送っているのだろう。だから恥ずかしいということがないのだ。また「見せる/見てもらう」だけの赤ちゃんは裸ん坊でも全く問題がない。

ところが「隠そうとする/見られてしまう」という部分が出来てくると服を着る必要が生じる。その機能は当然「見せるところは見せ、隠すところは隠す」という存在だ。私はたまに夢で自分が裸になってしまい、人前で必死に自分の体を隠そうとするという体験を持つが、自分の身を一切覆うものがない時の不安は格別である。体の一部を覆う布をまとうことで、人はこれほど安心して社会生活を送ることが出来る。

その意味で被服はまさに防衛なのだと思う。それは暴力的、侵入的な他者の視線から守ってくれるのだ。そしてもちろん「見せたい部分だけみせ、隠したい部分は隠す」という被服の機能は極めて重要なのだ。羞恥の感覚が服を着るという行動に向かわせるという意味では、羞恥はまさに防衛であると言えるだろう。では一体どの時点で恥が私たちにとっての敵としてふるまいだすのか。

何日前かに書いた当事者方の漫画(「人生が一度めちゃめちゃになった アルコール依存症のOLの話」)を思いだしてみる。筆者にとっては宅配業者の顔を見ることも、一種のトラウマ体験にように感じているのだ。これは一種のフラッシュバックに近いような体験ではないだろうか?