対人体験のことについて引き続き書くが、ただし私たちの中にはこれらの情報が過多であり、混乱を引き起こすこともあるだろう。その一つの例がASDである。彼らが人と目を合わせないのは人の視線が興味がないというわけではない。現在ではASDでは視線を一瞬合わせてから逸らすという傾向(視線回避)が知られている。それは人と目を合わせるという体験が有する膨大な情報に圧倒され混乱し、パニックを引き起こすから出る。
対人体験は怖いものだということを話しているうちにASDに脱線しかかっているな。元に戻して。私がここで試みているのは、この体験は羞恥の体験とも近いということだ。そこでネットで調べると、なんと「共感的羞恥」という言葉が出てきた。最近テレビやSNSでよく目にすると書かれている。要するに他人が恥をかいている様子を見ると自分まで恥ずかしくなるという気持ちだ。読んでいくとどうやらそれはHSP (Highly Sensitive Person)につながるらしい。本当にそうだろうか。今や人口の15~30%に見られるとも言われるHSP.それらの人は恥ずかしがりやで、そしておそらく共感性が高いことから共感的羞恥を感じやすいということらしい。え?ホント? ということでHSPの定義を読み直すと、他者への感情移入については確かに書いていある。しかし羞恥心、恥ずかしがりやということは特に書いていない。当たり前なのだろうか。ちなみに私はフィギュアスケートを見るのがとても苦手である。選手がいつ転ぶかわからず、恥ずかしいからだ。私もHSPなのだろうか。
また注意がそれかけたが、私が書きたいのは、羞恥体験は不快な体験、トラウマといったレベルには至っていないことである。気恥ずかしさには、どこかうれしさがある。学校の作文のコンクールで入賞し、クラスで皆から拍手をされるときの羞恥心は、その際の心地よさとかなり関係しているだろう。要するにうれしいが照れくさいのだ。どうしていいかわからないのだ。しかしそれが純粋に不快な体験に転落することになる。それは恥辱体験だ。
この羞恥 shyness
と恥辱 shame の違いについては、改めて書くのも恥ずかしいくらいに、過去に何度も書いている。両者の違いの決め手は、そこに自尊感情の低下が伴うか、だ。恥ずかしい場合には自尊感情は普通だし、場合によっては高い。だから恥ずかしいのだ。しかし恥辱では自尊感情はとても低くなっている。