異なる学派をどのように受け入れるか。
精神療法、心理療法の世界では、異なる学派を受け入れたがらないという傾向はかなり強いのではないか。私達は基本的には多様性に非寛容なのである。そしてそれは私たち人間がもともとの性質として持っているからであろうと思う。
私達は生命体であり、相手が自分にとって敵か味方かを敏感に判断している。それは何よりも重要なことだ。そして敵か味方かということは、相手が正義か悪かという判断と密接に関連している。多様性に寛容であれ、というのは本来の私たちの在り方に反する注文なのである(もちろんだから寛容さは必要ではない、ということにはならない。むしろだからこそ必要なのである。)
ある時私はロシア―ウクライナ戦争に関するネットの記事を読んでいて、一つの興味深い、しかしある意味では当たり前なことに気が付いた。それは記事のほとんどが、結局はロシアかウクライナのどちらかを正当な側としているということである。ネットの世界ではロシア側に肩入れする議論も少なくないことは少し驚きではあるが、これも非寛容性の表れとみていいだろう。しかしあのような出来事でさえ、ロシア側とウクライナ側の言い分は真っ向から対立し、両方の国民もかなり本気で自分たちの主張を正当化する。因果関係を考えていくと、どちらが悪いか、どちらが仕掛けたかわからない、という意見はむしろ例外的らしい。(ただしどちらの考え方が時代錯誤的かと言えば、それは決まってくるだろうが。)
学派の対立で興味深いのは、AがBを非難しても、それは「差別」とはあまり認識されないことである。例えば地動説派が、天動説派に対して「天動説は古臭い、非科学的な理論である」と非難したとする。天動説派はそれに対して「天動説を差別する発言である」とはならないであろう。ところが男性が女性に対して「女性は○○な傾向がある」は差別的と見なされる可能性が高い。
少し脱線だが、いつか米国のプロバスケットボールの監督(白人)が、『黒人は身体能力に優れる』と言ったら、差別的と言われてしまった。このニュワンスは米国で暮らしているとわかるのだが、この辺はどうだろう。チャットGPT(これからチャット君と呼ぶことにした)に聞いてみよう。
私:チャット君は、「黒人は身体能力が優れている」は差別的だと思いますか。ちなみに私はこれからあなたのことをチャット君と呼ばせていただきます。
チャット君:私は人工知能であり、感情や意見を持ちません。ただし、私は差別的な表現や人種差別についての情報を持っています。 "黒人は身体能力が優れている"という表現は、一般化やステレオタイプを含み、人種差別的と受け取られる可能性があります。私たちは、人々をその人の人種や出自に基づいて判断することなく、個人として尊重することが重要です。また、私は "チャット君"と呼ばれることには何の問題もありません。
私:僕の母親の旧姓、覚えている?
チャット君:私は人工知能であり、プライバシー保護のために情報を保存することはありません。したがって、あなたの母親の旧姓について覚えているわけではありません。申し訳ありません。