2023年2月27日月曜日

私の共感論 8

 情緒的な共感 EEではなくて認知的な情緒的な共感 CEE が治療者にとって必要なのは、患者が私たちに別れを告げる時である。あるケースが私を見ると過去の虐待者を思い出すようになったとしよう。あるいは私を信用がならない存在と思うようになったとする。そして治療関係を終わらせたいと告げてきたとする。その際にとても大事なのは、私がそこで様々な感情を体験するとしても、それをトラウマと感じないということである。見捨てられ、寂しい、やりきれないといった感情が起きるとすれば、それは治療者としては問題であり、しがみつきになってしまう。もしその患者がEEの対象となっているとしたら、家族や親しい友人に別れを告げられるのと同様の苦しみを味わってしまうことになるのだ。それは患者にとっても治療者自身にとっても決して有益なことではないだろう。

聞く側の姿勢

ともかくもこれまでの議論でCEE,(言葉を変えるならば「冷静な共感」と言えるかもしれない)が大事であるという議論になったが、そのためには治療者の側の受け身的な「傾聴」のみではほとんど意味をなさないということになる。なぜなら傾聴のみにより伝わってくる情報は極めて限られているからだ。何しろ相手はこちらが伝いたい内容をわかっているという前提で話してくることが多い。よく配偶者が、「この間またあの人に大変な目に遭ったわよ!」と言ってきたとする。「そうか、まったくひどいよね!」というのが共感的な反応であろうが、こちらは「あの人」が誰を指しているかわからない。そこで「大変申し訳ないけれど、『あの人』って誰のこと?『また』、というのは何のことだったっけ?」と尋ねるしかないが、場合によっては「そこまで言わなくちゃいけないの?」と言われてしまうかもしれない。でももちろんここは「詳細な質問 detailed inquiry」をしなくてはならない。配偶者の憤慨の気持ちを一生懸命ミラリングしようにも、何のことに憤慨しているかをわからないでは、共感のしようがないではないか。

そこで私は精神療法で患者の話を聞く、とは患者の話の不明な点について尋ねていくというプロセスなしには意味をなさないとさえ思っている。分析的な受け身的な話の聞き方では不十分なのだ。