2023年2月24日金曜日

私の共感論 7

 一昨日の続きである。私が向かうべき結論は、ありきたりの言い方をするならば、臨床家は「CEE(認知的な感情的共感)を磨きましょう」ということになる。EE(感情的共感)が十分発揮できたとしても、それだけでは臨床家は一人の患者さんの苦しみを抱えることですでに一杯いっぱいになってしまうだろう。そこでCEEが重要となるのであるが、これは簡単ではない。ドライソケットやうつ病や、出産の痛みや、タバコのおいしさなどを実体験したことがないと人はCEEを持てないということになるのだろうか?でもそうすると男性の治療者は女性の体験を持つことが出来ず、出産の苦しみを訴える患者さんを決してCEE出来なくなってしまうことになる。
 もちろんその体験を持つ代わりにその状態をよく見知り、勉強し、詳しくなっておくことが役に立つだろう。例えば歯医者さんならドライソケットになったことがなくても、それを訴える患者さんを何度も見てきているので、それが単なる歯痛ではない、ただごとでない状況であることを知っている。だからその訴えにも「そんな大げさな」とは思わずに強めの鎮痛剤を出すはずだ。(それでもそっけない歯科医は、サイコパス性を備えていることになろう。)でも私たちは人の苦しみのあらゆる種類について本で読んで、あるいは臨床体験を重ねることでCEEを発揮できるようになるとは限らない。では瞑想、メディテーションだろうか? おそらくCEEを研ぎ澄ますためにはマインドフルネス瞑想が有効らしいが、それは別の機会に考えるとして、一つの可能性を考えたい。それはEEの力を有し、Aさんの痛みを一瞬ではあれ心に写し取ったうえでCEEに切り替えることである。「そんな離れ業が出来ますか?ロボットじゃあるまいし。」と言われそうだが、それは本当に無理な事だろうか?
 慈悲深い行いをする僧侶は、民の苦しみを聞いて疲弊して動かなくなってしまうわけではない。その代わりに民を「助けたい!」と強く願うのである。これは「反共感論」の一部(特に186頁あたり)を読んで学んだことだが、クライエントは苦しみを訴えた相手が同じ苦しみを味わうことは欲していないであろう。クライエントは治療者がそれでも壊れずに落ち着いていてくれることだ。引用しよう。「共感はセラピストがクライアントにではなく、クライアントがセラピストに覚えるべきものなのだ。」(同頁)
 愛着でいえば、泣き叫ぶ赤ん坊をあやす母親は、一緒になって泣き崩れるわけにはいかない。その苦痛をEEを用いてモニターした後は、赤ん坊の苦しみを軽減する方法を冷静に考えるのだ。CEEを用いて。「ああ、眠たいんだな。」とか「きっとお腹が空いてるんだろう」とか、「そういえば体がやけに温かいな。発熱しているのかもしれない。」
 しかしこのことはよく聞く「肉親は主治医にはなれない」という話とも関係しているようである。私個人は肉親でも主治医になることは不可能ではないと思う。ある程度はやっていけるはずだ。でもある程度関係が深くなると、治療者としての「押し」も「引き」も微妙に精度が狂うだろう。
 例えばあるセラピストが
50分、週一回の心理療法を比較的問題なくこなすが出来ているとしよう。それは特に患者の側がその構造にチャレンジすることがなければそのセラピストにとってさほど難しい仕事ではない。ところが患者が危機的な状況でエクストラのセッションを望むとき、すぐにでも治療者はEECEEの間で揺れることになる。「私だったら個人的にはここで思わず手を差し伸べたくなる。でも治療者としてはここでとどめておくべきだろう。」そしてこの判断は患者があかの他人(というのは言い過ぎの気もするが)であるからこそ判断できることなのだ。もし仮に患者が実の子であれば、必ずEE側に片寄せしてしまい、CEEに戻ることに苦痛を覚えるであろう。するとこの種の治療構造そのものが意味を失いかねないのである。

 だから「肉親の主治医にはなれない」ではなく「肉親は主治医になるうえで困難を体験するかもしれない」くらいだろうか。ただしわが子だから、いくらでもお金を出して、いくらでも苦しみを耐えて治療手段を模索するかもしれない。「他の医者には任せておけない」という主張も場合によってはアリなのである。