2023年2月23日木曜日

私には脳科学はうさん臭かった さらに書き直し

 ソフトウェアとしての脳科学なんてアリか?

 ところで先ほど私は、精神科医として駆け出しのころ、脳科学をうさん臭いものと考えていたにもかかわらず、脳科学な興味を持っていたと書いた。そして例として、精神分析や「快感原則」やファントム理論に魅かれていたと述べた。しかしこれらの理論は実際の脳科学とは程遠い。それでも私はそれらは脳についての理論だという考え方は持っていたし、今でもそれは変わらない。なぜ自分にはそう思えるのかを考えているうちに、一つのアイデアが湧いた。これはコンピューターのソフトウェアとハードウェアの関係に似ているのだ。

脳というハードウェアに心というソフトウェアがインストールされていると考えてみよう。するとこれは脳と心の関係にうまくなぞらえることが出来るように思う。パソコンにこれほどなじみ深くなった読者なら、容易に納得していただけるのではないか。

私たちはパソコンに好きなゲームソフトをダウンロードして、ディスプレイに展開される様々なイメージや音を楽しむ。パソコンはただの無機質の機械だが、ソフトウェアはストーリーを展開してくれる。そのソフトウェアといえば、実際にはAならBBならC・・・・というような単純なコマンドの膨大な集積である。でもプログラムを組んだ人の頭の中にはおそらく物語を独特の言語で書きだしているような感覚であろう。それにプログラミングには素人の私たちも、その何百万行にもわたるコマンドを解説してもらえれば、一つ一つ読むこともできる。それはストーリーの本の一コマであるが、それでも微小な物語を含む。AならBというふうに。そしてそれが高速で動くことで、ちょうどパラパラ漫画を高速でめくると動きを生み出すような、一つのストーリーを展開することになるという仕組みが理解できるだろう。それはある原因があって、結果が生じるというような、私達の日常体験と似たような形で展開され、それを私たちは理解し、心を動かされるのである。

しかしそのようなソフトウェアの内容はパソコンというハードウェアのCPURAMやハードディスクやそれらをつなぐ細かな配線を調べることからは得られない。それは心というソフトウェアを知ることには直接つながらないだろうからだ。例えばCPUを冷却するファンにしても、その回転数の変化がソフトウェアの動作に直接影響を与えることはないだろう。もし影響があるとしたら、ファンが壊れてCPUが熱を持ってしまい、ソフト自体が動かなくなってしまうことくらいである。

さて私が馴染み深く思った精神分析理論も、快や不快の原則も、そしてファントム空間論も、脳というハードウェアに対するソフトウェア的なものについての有用な仮説を提案しているように思えたのだ。それは心の本質により迫るような気持ちを私たちに起こさせたのだ。だからそれらも私にとっては依然として「脳科学」なのである。

フロイトの局所論モデルも構造論モデルも、いわばソフトウェアの仕組みを説明するためのものだったということが出来るだろう。フロイトが脳の神経細胞の在り方から心の理論を打ち立てようとしたが、結局失敗している。それが1895年に書かれた「科学的心理学草稿」(1895年)であった。フロイトはその後、それとは全く異なる心の理論を描きだした。それは神経細胞がどの様に配置されているかということとは全く別の次元の議論であった。例えば幼少時に体験した性的な興奮が抑圧されて、それがのちの症状を生む、というような、一種のストーリーを持ったものであった。心の筋書きと言ってもいいだろう。それは脳のハードウェアの議論からソフトウェアの議論へとスイッチしたものとしてとらえられるのだ。そしておそらく私の脳に対する関心も同様のものだった。

フロイトが脳のソフトウェアとしての精神分析理論を考えたように、他の理論家が別のソフトウェアを考えたとしても、それらは一種の仮説である限りは問題がない。むしろ心というソフトウェアはどのようなものかについての理論が豊かになり、より本質に迫ることになるだろう。

ところが、である。今になってみれば、この私の考え方は間違っていたらしいのだ。端的に言おう。脳には何のソフトウェアもインストールされていない可能性があるのだ。脳はハードウェアしかなく、ソフトウェアなどない。あるいはこう言い換えてもいいかもしれない。脳においてはソフトウェアとハードウェアとは別れていない。あえて言えば両者は同一なのだ。どういうことか。例えば脳の働きを画像で見ることが出来るようになってきている。すると例えばfMRIにより見ることのできる脳の興奮のパターンは、その時心が何を体験してるかにかなり対応している。脳の局所的な興奮のパターン(ハードウェア)は、その人が何を体験しているか(ソフトウェア)をある程度言い当てることが出来るほどに対応しているのである。

もちろんfMRIに映る脳の興奮の動きそのものが心である、とは言わない。しかし例えば脳の神経細胞と神経線維を図で表すことが出来たとして、そこを流れる電気信号の動きを指して、「これが心です」ということは、あながち間違ってもいないのだ。そもそも心とは情報の行き来そのものであるという考えに立った情報統合理論などは、そのように考えるのだ。情報の行き来がどうして心なのですか、と皆さんは問うかもしれない。それは誰にもわからないことだが、そのような情報の動きがある場合に、忽然と幻のような意識が芽生えるというのが意識の在り方である、というのが現在の心についての考えの一つと言える。もちろん情報の動きと心とを結ぶものは何かということを問うた時に、それが難問 hard problem なのであるという立場と、「いや意識とは結局幻ですよ。問題そのものが存在しないのです。」というような受動意識仮説に分かれるというわけだ。