2023年2月19日日曜日

私の共感論 3

 

共感に関する議論の面白いところは、共感が治療において極めて重要な位置を占めるということは、直感的に誰でもが分かっているということだ。「あなたは~思っていたんだね」とか「~と感じていたんだね」と人から声をかけられることは、もしそれが自分の体験に合致しているのであれば、概ね、時には極めてポジティブな体験となる。勿論「そうですよ。それがどうしましたか?」という反応もあり得るだろう。あるいは「そんなこと改めて言われる必要はありませんよ」「あなたにそんなこと言われたくありませんね」もありうるだろう。私たちには、人に自分の心に土足で踏み込んでもらいたくはないということもあるだろう。でも通常はそれはネガティブな体験にはならないものだ。

私たちにとってつらい体験がさらにつらくなるのは、その体験で味わったつらさを人から理解されないことによる孤独を味わう時である。だから心の問題を抱えている人が治療者にそれをわかってもらったと感じることは、そもそもその治療が成立するかどうかにとって極めて重要な要素であることは論を待たない。

「共感してもらえること」に比べると、他に論じられる治療機序、例えば「自分の問題についての洞察を得ること」とか「自分の無意識を明らかにすること」「無条件で愛されること」などはその価値を直感的に理解することはさして容易ではないだろう。無意識が明らかになることにはある種の恐れや危険が伴うことは容易に想像がつく。また「無条件に愛されること」はそもそもそれがどれほど実現が可能なのかという点も含めて即座に肯定することはできないのではないか.

だから心の問題を解決することが可能な精神分析手法が存在するという可能性を除いては、共感を与えられることの重要性は論を待たないことと言える。しかしここで悩ましいのは、精神分析的な手法はしばしば共感を与えるということと対極的なあり方をしかねないという点である。さもなければ「表出的かつ支持的な手法」がベストということに必然的になるのだ。しかし自分の言葉に対して分析家が反応をせず、沈黙を守るような精神分析の空間で、患者が「共感されていない」という体験を持つとしたらどうだろう?そしてこのことはしばしば分析的な治療において昔も今も生じているのである。しかし分析的な手法を重んじる立場の治療者はそうやすやすと「共感も大事ですよ」とは言えなくなる。そして先ほどのもったいぶった表現が出てくるのだ。

「できうる限り表出的であれ、そして必要な分だけ支持的であれ。」

でも支持的な介入を必要としていない人などいるだろうか?それにもかかわらず「支持はできるだけしない方がいい」というニュアンスがここに含まれてはいないだろうか?