2023年2月20日月曜日

私の共感論 4

 表出的か支持的かに関わらず共感は必要ではないか

ここで私が考えている共感に基づいて一つの提案をしたい。表出的-支持的という二分法はそれ自体の意味が改めて問われていることは以上に示した。しかし表出的な介入をするにしても、支持的な介入をするにしても、少なくとも治療者が患者の心の理解をすることに最善を尽くすことは、必須ではないか。極端なことを言えば、解釈的な介入のみをするという方針の分析家も、患者の言葉に頷きさえしない分析家も、それでも心の中で共感をしているということは最低限必要ではないか。なぜなら解釈をするとしても、まず患者の心の中が分かっていなければ何も出来ないであろうからである。

ところがこの提言は、ある反論や抵抗に出会うだろう。(というか私が自分でそれを持ち出している。)「分析家が注意を払うのは患者さんの無意識です。もちろん患者さんの意識の世界を知ることは重要です。しかしそれは無意識内容が症状や言い間違えや夢として象徴的に表されるものを見出す、という意味で重要なのです。」

フロイトが実際にこのような言い方をするかはわからない。しかし精神分析における意識内容は、それが無意識を表している限りにおいて重要と考えられていたということがある。つまりフロイトは「患者さんへの共感も大切ではないのですか?」という問いをそもそも立てなかったのではないかと思うのだ。あるいはフロイトはそう問われればこう答えたかもしれない。「もちろんです、患者さんの気持ちを分かってあげることは大事でしょう。当たり前です。でもそれは精神分析の仕事ではありません。」

ここに至って見えてくるのは、フロイトのダブルスタンダードである。フロイトがマルタさんやフリースに一生懸命書き送ったのは、彼の意識野の内容であり、それ自身は彼にとって極めて重要な意味を持っていたはずだ。マルタに、「僕が貴方のことをどれほど思っているかわかりますか?」と書き送った時、そしてフリースにも似たような文章を送った時、彼は自分の意識野の内容を分かって欲しかったのではないか?「共感」を必要としたのではないか?(というよりフロイトの業績そのものが彼の考えを「分かって」欲しかったからではないか?)しかしそれほど大事なはずの彼の意識世界での出来事は、彼の紡いだ精神分析理論には出てこないのである。彼は彼自身の日常心性と精神分析における心の理論を別々に考えていたのではないかと思うのである。

ここからは私の意見だが、私は患者の意識内容と無意識内容を知るためにも、共感は必ず必要になるのだ。というか、こう改めて述べるのもおかしいほどに当たり前のことだ。「患者の意識内容を知るためには共感が必要だ」というのはまさにトートロジーだ。いかなる介入をするにしても、最初はその意識的な在り方を知ることが大事だ。「解釈の前に理解」(コフート)なのである。

面接の大部分は、まず共感をするための傾聴であり、必要に応じた質問により成り立つはずだ。分析家が黙って話を聞くだけ、というのはおかしい。患者には当たり前に思えて話題にすらしないことも、他者としての分析家は聞いて明らかにしなければならないことはいくらでもある。治療者は患者から「教えてもらう」必要があるのだ。すると結局は詳細な聞き取り detailed inquiry (サリバン)は必然なのである。

ここら辺は私は2002年に書いた「中立性と現実」(岩崎学術出版社)でしつこく述べている事なので繰り返したくないが、要するに治療者と患者は「共有の現実」(ある出来事についてお互いが持っている理解の共通部分)の獲得を目指して言葉を交わすのだ。「Aという出来事が起きて、それに対して私はBと考え、感じました」という患者さんの提言は、治療者によって「色々説明していただいて、貴方の置かれた状況や感じ方を知ったうえで聞くと、確かにAについてBと考え、感じたというのはよく分かります」という風に応答された時点で一つの到達点に至っていることになる。もし以前に書いたように、人間の苦しみの根っこが、「苦しみを誰もわかってくれないことからくる孤独感」から来るならば、同じ考えを持つ治療者が目の前に現れたことで、少しは報われるのだ。しかしもちろんこの時点に留まることは恐らく決してない。なぜなら本当の意味で人の心を分かることは実は不可能だからだ‥‥。