はじめに
共感は必要なもの、いいもの、大切なものという考えを私はごく自然に持っていたが、最近の「反共感論」についての議論を追うにつれて、それも大変重要なテーマであり、共感=善、共感が治療の要であるという考え方には慎重になるべきであると考えるようになった。そこで今日の話は以前の考えをバージョンアップした共感論である。
精神分析において共感についての議論は、少なくともフロイトの理論にはあまり馴染まない。私は精神分析理論を学び始めた非常に「素直」な時期には、おそらく「治療者は患者に共感すべきだ」という議論について聞いたとしても、「もちろんそうだろうが、それは精神分析でなくても皆考えることだろう。でも精神分析はある種の特別な患者との言葉のやり取りを目指しているのであり、むしろそちらの方を追求したい」と思っただろう。それほど精神分析は私にとってはある種の「特別な関り」であり、そこで起きることがあまり常識的でなく、日常的に成立している人間関係とはかけ離れているところに、その本質があるものと考えていた。何しろフロイトにより推奨されている分析的な態度とは、患者の話を黙って聞き、そこにあえて介入しないことなのである(と少なくとも私は当時そう思っていた)。それは人の話を親身に聞き、時には考えやアドバイスを伝える、という普通の聞き方からは明らかに異なる、ある種不自然な態度であるが、それが分析の本質と考えていたから、私は患者の話を聞きながらその「不自然さ」を維持した。これを通していくことにより分析的な関りが展開していくはずだ、と思いながら、患者の話に耳を傾けていたのである。私は新人の頃、いかに沢山の患者さんをドロップさせてしまったのだろうか、と思う。私だって医師になって2,3年の、精神分析を学び始めの頃の私に心の問題について相談に行っても「何にも言ってくれないんだ‥‥」と思って行かなくなってしまったと思う。
精神分析による影響が少なくなるにしたがって、私の患者に対する態度はより自然に、あるいはまっとうになっていったと思うが、その時になってようやく考えるようになったのが、人は治療者にどのように話を聞いて欲しいと願うか、ということである。全く当たり前の話であるが、人の話を当たり前に聞くのは精神分析とは違うのだ、という考えから抜け出るためにはある程度時間がかかったと言える。そして精神分析理論を学ぶについて当然出会うコフート理論に興味を持ち、しかしそれがどうしてこうも精神分析の本流から敬遠されたのかということについて真剣に考えるようになったのだ。